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なので、自分の戦略として

今朝、アップされたももまろさんの記事を読ませていただき、久々に自分も表明してみたい欲に駆られて衝動的に書いてみた。

コミュニケーションのズレ、いつも感じているといっても過言ではない。これから書くのはnoteでのコメントの応酬のことではなく、あくまでもリアルな生活の中で、ってことを前提に置く。

自分が発した言葉の真意、できるだけ相手に理解してほしいなと思うのが人の性。人によっては自分の発言について他者が自分の思うような受け止めをして当然、と考えているらしい。双方の思い込みや理解が違うことで誤解が生じて関係性が悪くなっている人達によく遭遇する。

顔や態度に出さないけれど、伝わってないな~って感じることは自分でもよくある。自分の心情とか心理みたいな曖昧なことではなくて、何かの手続きの説明とか時系列に沿っての事実の報告とか、普通に順を追って聞いてくれればそんなに噛み合わないことないんじゃないか、って気がするのだけれど勝手な思い込みで何か言われると話す気が一切失せてしまう。対話って自分の発信を受け止めて、それに対しての返答をして、その返答をまた受け止めて、ってことを繰り返すことだと思うけれど、相手に入らないで返された言葉は、やっぱり自分の心には素直に入っていかない。

それは程度とバランスなのだとは思う。相手への期待が高いから、違った場合にショックが大きい。相手はわからない人って認識していれば、それで当然なんだって思える。相手は知能が高い人って前提が自分の中にあって、だからこの程度報告すれば理解してもらえるだろうと期待して、でもその返答が自分の期待とかけ離れていて、一気に不信感に変わる。つい最近、医師を相手にしてのやりとりが頭を過ぎる。

そんな経験から「自分と他人は違う人」「エラい肩書きある人が優れているとは限らない」「誰にも得意分野不得意分野がある」「自分の言葉は思っている以上に伝わらない」「本当に知らしめたいこと・どうでも良いことを区分けすること」等考察して学ぶ。

更に発展させて、自分だって相手のことわかってるつもりになってるかもしれないことや傾聴できてないことなど自覚的でいなくちゃって思う。

そしてそこに思いを馳せて、他者と話すときには、しっかりと相手の言わんとすることを聴く態度をみせよう。相手の想いを理解することの精度を高めていけるようにしよう。そのためにはやっぱり、否定ではなく肯定して好意的な受け止めをしていかなくちゃって思った。

みんながみんな、自分のことを主張して発信することに夢中だからこそ、その発信を真摯に受け止めて理解に近づく。そういう人材は希少で貴重になってくるはず。
洒脱な会話とか個性的だったり魅力的な発信などできない自分なので、リアルでは聞き役を引き受けて、できるだけ丁寧に正確に相手の想いを理解できるような人を目指して行こうと思う

noteは発信の場なので、リアルでは中々言えないこととかガス抜きとか勝手なこと書いている。誰かに向けてではなくて(ケアマネ関連のことは読んで下さる人に向けてるけれど)一方的で自分勝手な戯言ばかり。読んでもらうことは期待しないし、逆に何を感じてもらってもOK
多くの読者が欲しいと思う人はそういう風に動けば良いけれど、みんながみんな読んでもらうためにnote書いてるわけじゃない、ってことは自分が証明できる。

ここまで読んで下さった皆様、ありがとうございました。noteでは書きたいことだけ書いています。言葉足らずのところもあるかもしれなくて、誰にどのような感想を持たれても構わないと思っています。反論・批判も含めてご意見はありがたく頂戴いたします。