自分の背中は自分では見えない
例えば友人A、B、cがいて、自分を含め全員が顔見知りだけれどグループではない。そういう関係性では、少し面倒臭いことがあったりする。自分と誰かはどちらかというと友好的、一緒にランチしたり研修に参加したりする。
だけれどA対Bが関係性があまり良くないことがあって、双方からそれぞれの愚痴が耳に入ることがある。どちらにも言い分があって、双方に良いとこ、良くないとこもあって、考え方の違いというのが大きいのだけれど。
自分は面倒臭いことは苦手なので、相づちは打つけれど「よくわからない」と逃げる。「そういう目で見たことない」とも言う。その場の悪口に共感して同調すれば多分もっと盛り上がるのだろうけれど・・・・
当たり前だけれど、その場で聴いたことを漏らすようなことはしない。余計なことは言わない。どちらに対しても、違う人との関係は保ちたい旨はきちんと伝える。
あなたが考えることを否定しないし尊重する、けれどそれは私の考えとは少し違う。そんなことを意識する。
そんな日常の中で思ったこと。マウント取りたい人って例外なく自分が見えていない。人のことにケチをつけたくなる。相手を落とすことで自分を上げたいのだろう。冷静に見ればそんなことするより黙っていれば良いところがもっと輝くだろうに。少し勿体ないな~って思う。
人から見える印象って語られる言葉通りではなくて、言外の佇まいにも現われる。大きなマウントは過剰な自己アピールだけれど、コンプレックスの影もある。本性見えたときのギャップは大きいしやっぱり逆効果。でもまあ、行動や仕事ぶりは、みんな五十歩百歩、悪口言っても目くそ鼻くそ。
愚痴を言う相手に選ばれたのは光栄と思うことにする。誰とでも程々の距離を測ることと、愚痴とか悩みとか語れる相手を見極めること。世渡りしていくのに大事なことだと実感する。当然自分も目くそ鼻くその部類に入る。noteは自分のリアルとは分断されてるから思ったこと書くけれど。リアルな自分はやっぱりもれなく残念でつまらない奴。
それでも心がけてるのは、余計なことは言わない。言ってしまった言葉はどう取り繕っても取り消せないことだから。
モヤモヤを取りあえず言語化してみた。他人から自分がどう見えてるかなんて本当、わからない。正直で謙虚な自分が、自然な自分らしさになるように研鑽を積んでいかなくちゃと思ったりする。