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階段を一段上がって見えたもの

4月に始めた長期インターンシップを終えるまで残り一週間。この5か月間を振り返ってみることにした。

去年の3月、私は悶々としていた。コロナが流行り始めてからというもの、朝からパソコンに向かう無機質な毎日が繰り返され、飽き飽きすることを越えて、気持ちが限界に達していた。心のコンパスはとっくに壊れていた。情熱を感じるものはなく、惰性に流され生きていた。

中学生や高校生の頃が懐かしく思えた。あの時代を生きているときには感じなかったけれど、やっぱり私たちはきらきらと輝いていたらしい。もう一度、あのときのように一生懸命に何かに取り組みたいと思った。

そんなとき、いろんな偶然が重なって、長期インターンシップを始めることになった。本当にやりたいことなのかは正直わからないけれど、この機会を逃したら地の底まで落ちてしまうような気がして、チャンスにしがみつくような思いで始めた。最初は、自分の立場が分からなかったし、企業が掲げるミッションに対する熱量が他のインターン生と違いすぎて、戸惑いと不安しかなかった。視野は狭いながらも、見える課題に対して地道に向き合うしかなかった。

まあでも、そんな地道なところが評価されて信頼を得られたのかなとも思う。なんだかんだ続けて、いろんな人と対話を重ねたり、経験を積んだりすると、だいぶ気持ちに余裕が出てきた。企業のミッションに深い理解を示せるようになったときには、仕事に対する意欲が、自分でも経験したことのないほどになった。遊ぶように仕事をするってこういうことをいうのかな、と思ったりもした。誰かの声もお金も関係なく、自分が心の底からやりたいと思うことに出会えることって尊いなと思った。いやでも、「出会う」っていう表現はちょっと違うのかなとも思ったり。1つ1つの小さな選択が積み重なって得られた現在だもんね。

そんな貴重な経験ができたのに、自らの意志でインターンを終えることにした。始めはそれなりに筋の通った理由があって、自分でも納得していたのだけれど、それは嘘ではないがどうやら本質ではないということに気づいた。


今、インターンを始めたころを振り返ると、あのときから階段を一段上ったような感覚になる。二段でも三段でもなく一段。一段上って見えた景色は色鮮やかだ。と同時に、上ってきた先を見下ろすと、それはすぐそこにあるような感覚にもなる。気を抜いたらすぐに半年前に戻ってしまいそうだ。きっと、インターンを続けていれば少なくとも落ちることはなく、現状維持できるのだろうと思う。優秀で魅力的な仲間が切磋琢磨している環境に身を置いていれば、何かしら自分の中で疑念があったとしても、いい意味で流されるだろう。

なんかでもそれは違うんじゃないかと思う。これまでもそうだった。いわゆるコンフォートゾーンにいることは私にとって怖い。ここにいてはいけないと、何かがしきりに私を動かそうとする。コンフォートゾーンを構成する要素で最も大きいのは、大切な仲間。仲間がいるからこそ頑張れるというのは素晴らしいことだと思う一方、仲間が一番の頑張る理由になってしまうと、なぜだか歯がゆい。

あの何とも言えない、自分から沸き起こる強烈な情熱を、過去の私は確実に経験したのに、現実的な自分とかめちゃくちゃ疑い深い自分とかが唐突に表れ始めて、いつしか情熱を感じられなくなり、続ける理由が人間関係だけになってしまっていた。情熱を感じられなくなったことも苦しくて、自分を責めたりした。


私はずっと、自分の選択によって周りの人がどんな気持ちになるのかどんな影響を与えてしまうのかと思考を張り巡らせて生きてきた。でも、本当の自分の幸せは、そういった選択の仕方では手に入らないと学んだ。だから、"誰か"を選択の理由にしてしまうことを、無意識的に避けているのだろうか。まだ言語化しきれない。


インターンを終えることは、決して何かからの解放ではなく、新たなコンフォートゾーンを見つける始まりなのだと今は思っている。


※やっぱり最後の方はまとまりきらなかったなぁ。読みにくかったらごめんなさい。

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