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写真に対するスタンス表明
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#コラム

物撮りと、その裏側をのぞいてみる

普段は仕事で人ばかり撮っているけれど、仕事の落ち着いた時期には趣味で小物を撮ったりもしてみている。最近はある意味で物撮りに近いニューボーンフォトの撮影も増えたので、だいぶ慣れてきた感があるとはいえ…最初はまったくのゼロ知識からだったので。何をどうしたら雰囲気の良い写真が撮れるのか、さっぱりだったし。どんな小物があれば雰囲気作りに役立つのか、どこで手に入れればいいのか、何がコツなのか…もうとにかく、なんにもわからなかった。 そんな過去の自分みたいな人には、こういう記事も何かの

わたしのカメラのたのしみ方

若かりし頃は、「思い出はこの目で見て、心と記憶に焼き付けるもの」だと思っていた。だから大学で海外実習に出た時も、生まれて初めての海外旅行だというのに持って行ったのは36枚撮りの使い捨てカメラ1台きり。これで十分だと考えていた。 当時の自分にとっては、それは正しかったのだろう。初めての体験だらけの日々は刺激的で、思い出深いもので。「こんな記憶、何年経っても忘れるわけない」本気でそう考えていた。 しかし20年近く経った現在の自分は、当時の自分の肩をガクガク揺さぶって説教したい

見慣れない景色が見たい、そんな時は

いつものことを、いつもじゃなく、やる。 それは日常という見慣れた色彩に、異なる彩りを添える行為である… 単焦点レンズ、とは 単焦点レンズというのは、カメラに詳しくない人に向けて乱暴に一言でまとめてしまえば「ズームはきかないけれど、背景がしっかりぼかせるレンズ」のことだ。大抵のカメラ趣味の人間が、写真という沼にハマり始めた頃に一度は手を出すレンズである。 ズームがきかないということは。もう少しアップにしたいとか背景を入れたいとか思ったとしても、カメラではその操作ができない。

カメラと、写真と、春の宮島 - 後編

"写真で大切にしていること"というのは、わりあいに変化するものだ。 私的流行、とでも言えばいいのだろうか?短いスパンではそうでもないけれど、年単位で見てみると…構図だったり、光だったり、色味だったり。その時なりのこだわりがある。 今の自分で言うなら、「あ!を大切に」というのがそれだ。 ふと視線を向けた時に自分の中で「あ」と響くものがあれば、迷わずシャッターを切ってみる。他人から見れば何でもない風景だろう、パッと映える絵面ではない…そんな思考の説教臭い声は無視して、とりあ

カメラと、写真と、春の宮島 - 前編

ふと思い立って、春の宮島でふらりと夫婦で花見を楽しんできた。 いや、花見にかこつけたカメラ散歩といった方が正しいのかもしれない。 ここしばらくは仕事で撮影するばかりだったのだけれど、ひさびさにプライベートで重たい一眼レフを首からぶら下げて外に出た気がする。 昨年、紅葉の時期に「感覚で撮る、頭で撮る」でも書いたのだけれど… 桜や紅葉のようなベタな被写体には「人とは違う、自分らしい写真を撮らなくては…」という、無意識のノルマを課していたせいで。楽しいというより面倒と感じ

感覚で撮る、頭で撮る

この秋は、めちゃくちゃ紅葉を見た。 といっても、別にどこかへ行楽に出かけたわけではなくて。撮影繁忙期の七五三シーズンということで、そのついでだ。七五三定番の厳島神社がある宮島や護国神社側の広島城は、同時に紅葉の名所でもある。 以前は、紅葉の写真を撮りたいとはあまり思わなかった。どう撮っても似たり寄ったりになってしまうから、面白みがない…そうならない為にひねりを入れるのも面倒くさい。そこまでして紅葉写真なんて撮らなくてもいいや、そんな風に思っていたのだけれど。 今年は首元

写真は古い方が愛おしい

自分と地続きだけれども、既に遠すぎて直接触れることはできないもの達。そういった写真を眺めるのが好きだ。 父が若い頃に行った場所、自分が生まれる前の祖父の姿、記憶にない程に幼い頃の様子、若い頃に友人と旅した場所、ゼミ室の風景… 他人が見たら、なんてことない写真だろう。 でもそれはたしかに自分に続いている道で、良し悪しではなく胸を揺さぶってくる。自分に近しい気配がそこにはあって、だけれどももう決して手は届かない。既にハッキリとした手触りはなくしてしまったけれど、ぼんやりとした

疑似宇宙の思い出

今回の写真展は「持って帰れる写真展」ということで、「どれを持って帰ろうか?」と真剣に写真を眺めて下さる方々が沢山いらっしゃった。その中である方に選んでいただいた1枚が、これだ。 写真を選んでいる最中に「これは何を撮ったものなんですか?」と尋ねられた。パッと見では判断しづらい写真に意識して仕上げているものなので、その疑問が嬉しかった。 イメージとしては"宇宙"、地表に開いた穴の向こうに宇宙が見える…そんな想像をしながら撮影したものだ。 実際は雨上がりの水たまりに映っている

万人受けは死んだ個性なのかもしれない

6/23-24と開催していた、初めての個展が無事に終了した。 「3~4時間程度あれば大丈夫だろう」と気軽に考えていた搬入が、ぶっ続けの10時間作業となり…終電を逃してタクシーで帰宅したり。展示後の写真の数に圧倒されて「これは数の暴力では…?」と不安になってみたりと、予想外のことも色々あったけれど。 多くの方にご来場いただけたこと。これだけの数なのに、じっくり目を通していただけたこと。持って帰る写真を選ぶのに真剣に悩んでいただけたこと。数多くの差し入れを頂いてしまったこと。

へたくそな写真から見えてくるもの

今週末には初めての作品展が始まる。 ここしばらくはその準備にかかりきりでずっとバタバタしていたし、今もまだわりとそうだ。レポートは当日の朝に完成するタイプの学生だった、と言えばこの直前での焦りが伝わるだろうか。 先週いっぱいまでは、どの写真をプリントに回すかでギリギリまで悩んでいた。何年前まで遡るかを悩んだけれど、結局は出張撮影を始めた最初の写真から展示しようと決めた。そのせいで作業が増えた。Lightroom導入前のものについては、再現像をすることにしたからだ。 その選

¥300

良い、正しい、美しいは繋がらない

「良い写真」って何だろうな、と時々考える。 先日某写真家のパワハラ問題について話題になっていて、告発した元モデルの方の記事を目にしたのだけれど。搾取について綴られた、気持ちが沈むような文章を読んだ上で眺めても、それでもまだ。そこに掲載されている写真は、やはり美しくて。 美しさというのは、正しさとは無関係なのだなと感じさせられた。 美と善悪は別の尺度の問題だ。著名な写真家だから才能ある人物だからといって、そういった行動が許される訳ではないと感じている。だけれども、美しい物

記憶の小径、愛の行方(仮題)

今年は夏前に、生まれて初めての作品展的なものをやろうと思っている。 これまで写真サークルでの、ゆるい雰囲気のグループ展はやったことがあったけれど…個展というの初めてだ。というか、個展というほどに大げさなものではない。「壁にL判プリントをペタペタと貼り付けて、ご自身や家族の写っているものは自由に持って帰っていただける」という、これまで撮影いただいたお客様たちに楽しんでいただけるような展示をメインにやりたいと考えている。 そこに加えて、「これまで趣味で撮ってきた風景の写真も展

撮影のお手伝いをした時の話

そういえばもう随分前になるけれど、広告撮影をするカメラマンさんのお手伝いをしたことがある。 とはいっても撮影に纏わる部分では無くて、使いっ走り的なアシスタントだ。商業施設のチラシ制作の為の撮影だったから、各店舗から商品や料理を借りて返して…をしながら横目でチラチラと撮影を見ていた。 顧客や撮影対象が違うと、撮影スタイルも全く違うもので。まず持ち込みの機材がすごい。三脚は10本くらいあるし、光源は最大5灯、ディフューザーも数種類準備してあった。その他にもレフ板やテープ、バッ

写真の持つ力を、信じている

写真でお金は頂いているけれど…正直なところ写真家やフォトグラファーと名乗るだけの高い意識は、無い方だと思う。自分にとって、仕事として撮る写真は「誰かを幸せにする為に、自分が使えるスキル」と考えているからかもしれない。 趣味で撮っている方に関しては、完全に個人的な楽しみで。言葉だけでは足りない表現しきれない、"好き"に対する意見表明みたいなものだ。自分、という人間を表す1つの方法だと認識している。言葉も写真も「今の自分にしっくりきた感覚」を突き詰めて、形にして残す為の手段