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写真に対するスタンス表明
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#風景

ノープラン、ノールック、ノーチェック

カメラって本当に、面白い玩具だと思う。 使い方次第で、色んな遊び方が出来るところが好きだ。この春は、タイトルにつけた「ノープラン、ノールック、ノーチェック」という遊び方をしていた。 まずはノープラン。 「これを撮る」と決めて、どこかに行ったりはしない。仕事先から家に帰るまでの地元の道程を、観光客になった気分でぷらぷらしながら気ままにシャッターを切る。とっても気軽だ。 それから、ノールック。 これは言葉通り、ファインダーを覗かない。もちろんライブビュー画面にもしない。ただ

カメラと、写真と、春の宮島 - 後編

"写真で大切にしていること"というのは、わりあいに変化するものだ。 私的流行、とでも言えばいいのだろうか?短いスパンではそうでもないけれど、年単位で見てみると…構図だったり、光だったり、色味だったり。その時なりのこだわりがある。 今の自分で言うなら、「あ!を大切に」というのがそれだ。 ふと視線を向けた時に自分の中で「あ」と響くものがあれば、迷わずシャッターを切ってみる。他人から見れば何でもない風景だろう、パッと映える絵面ではない…そんな思考の説教臭い声は無視して、とりあ

写真は古い方が愛おしい

自分と地続きだけれども、既に遠すぎて直接触れることはできないもの達。そういった写真を眺めるのが好きだ。 父が若い頃に行った場所、自分が生まれる前の祖父の姿、記憶にない程に幼い頃の様子、若い頃に友人と旅した場所、ゼミ室の風景… 他人が見たら、なんてことない写真だろう。 でもそれはたしかに自分に続いている道で、良し悪しではなく胸を揺さぶってくる。自分に近しい気配がそこにはあって、だけれどももう決して手は届かない。既にハッキリとした手触りはなくしてしまったけれど、ぼんやりとした

同じであって、同じではいられない

写真を撮っていて、自分の中で流行を感じたことは無いだろうか? 世間での流行スタイルとは全く関係なく、「お!今は自分の中ではこれが流行ってるんだな」と撮りながら思うことがある。 ある時はふんわりハイキーに撮ることが、ある時は日の丸構図でも格好良く撮ることが、ある時は縦構図が…とその時々で内容は違うのだけれど。その時の気分にハマる何かに、ふと気づくことがある。 先日写真を撮っていた時に、ひさびさにその感覚に気がついた。どうやら今の自分は、構図の取り方に少し思うところがあるら

Not 桜日和 ~桜と写真とカメラの話~

今年の春は、どうにも桜に優しくない。 梅雨みたいに曇りと雨の日が続いて、風も強い。 よく晴れた青空の日、桜の下でお弁当を食べている。 柔らかな風が吹いたかと思うと、ひらひらと唐揚げの上に花びらが落ちてきた…みたいなシチュエーションは、どうやら今年は望めないらしい。 ただ桜写真を撮る、という楽しみが損なわれたわけではない。 晴れの日には晴れの日の、雨の日には雨の日なりの良さと楽しみがある。 昨日のお天気は、曇り時々小雨。 そしてこの辺りには珍しく、霧が出ていた。 いつも

写真沼に、片足を突っ込んで

写真って、その入り口に立った時に考えていた以上にずっと… 底なし沼みたいな趣味だった。 まず、道具がいる。知識がいる。 この時点で、すでに膨大な情報が目の前に山積みで。 それらをあれやこれやとつまみ食いしながら、先を進んでいると。 今度は自分と向き合うことを要求される、という段階に入る。 何が撮りたいのか、どう撮りたいのか、良い写真とは何か。 撮れば楽しい、では終われなくなってくるのがこの辺り。 そろそろ撮った写真が溜まってきたぞ。 ブックにまとめよう、写真展をしよう

例えば、ジャイアンとのび太のように

今日のテーマは、"文章の力"と"写真の力"。 ワークショップの中で、「文章では表現できない、写真の力」 というフレーズを、幾度も先生の口から耳にした。 言葉を尽くしても伝わらない事でも、目の前に提示されることにより 一瞬にして理解を深めることができる。 "見る"という行為にはそれだけ、言葉とは違う圧倒的な部分がある。 だからこそ、写真を選ぶ・見せる時には文章の力は必要ない。 文章の補足なく、写真の力で魅せるものを選ぶべきだ。 たしか、そういう趣旨の内容だったように記