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写真に対するスタンス表明
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#写真エッセイ

ノープラン、ノールック、ノーチェック

カメラって本当に、面白い玩具だと思う。 使い方次第で、色んな遊び方が出来るところが好きだ。この春は、タイトルにつけた「ノープラン、ノールック、ノーチェック」という遊び方をしていた。 まずはノープラン。 「これを撮る」と決めて、どこかに行ったりはしない。仕事先から家に帰るまでの地元の道程を、観光客になった気分でぷらぷらしながら気ままにシャッターを切る。とっても気軽だ。 それから、ノールック。 これは言葉通り、ファインダーを覗かない。もちろんライブビュー画面にもしない。ただ

カメラと、写真と、春の宮島 - 後編

"写真で大切にしていること"というのは、わりあいに変化するものだ。 私的流行、とでも言えばいいのだろうか?短いスパンではそうでもないけれど、年単位で見てみると…構図だったり、光だったり、色味だったり。その時なりのこだわりがある。 今の自分で言うなら、「あ!を大切に」というのがそれだ。 ふと視線を向けた時に自分の中で「あ」と響くものがあれば、迷わずシャッターを切ってみる。他人から見れば何でもない風景だろう、パッと映える絵面ではない…そんな思考の説教臭い声は無視して、とりあ

カメラと、写真と、春の宮島 - 前編

ふと思い立って、春の宮島でふらりと夫婦で花見を楽しんできた。 いや、花見にかこつけたカメラ散歩といった方が正しいのかもしれない。 ここしばらくは仕事で撮影するばかりだったのだけれど、ひさびさにプライベートで重たい一眼レフを首からぶら下げて外に出た気がする。 昨年、紅葉の時期に「感覚で撮る、頭で撮る」でも書いたのだけれど… 桜や紅葉のようなベタな被写体には「人とは違う、自分らしい写真を撮らなくては…」という、無意識のノルマを課していたせいで。楽しいというより面倒と感じ

来てみんさい、広島へ 9 <福山はバラの街>

仕事で福山市へ行ってきた。 同じ広島県内の都市なのだけれど岡山県と隣接しているので、山口県寄りの広島市内からは意外と距離がある。2つの間には「呉市・竹原市・三原市・尾道市」といくつもの市がまたがっているのだ。 その福山市は、バラの街である。駅前の植え込みにも、道路脇の花壇にもバラの花が植えられている。市の花はバラだし、100種類以上のバラが植えられているばら公園というものも存在する。 これは1956年に「太平洋戦争で荒廃した街に潤いを…」と、住民がバラの苗木約1000本

作業としての撮影は…

友人や身内の、式場でのウエディング前撮りに付き合ったことが何度かある。 自分の撮影ではない、他人の撮影を見られるということに。 ちょっぴりワクワクしたものだけれど… あれ、思ってたよりずっと"作業"だった。 仕事の効率を求めるなら、相手と向き合うことは必要ない。 条件さえ揃えば、そこにいるのが誰だろうと同じ。 人に合わせて型を作るのではなく、人を型にはめていく。 そう感じさせられるような…まさに仕事としての撮影だった。 1日に何組も流れ作業のように撮影していくのであ

気になる、ストリートフォト問題

※後半の投げ銭用のおまけ記事、無料公開に変えてみました。 硬めの前半と、気軽に書いたゆるゆるの後半のギャップをどうぞ。 ネット上での写真公開についての基準というものは、人によって曖昧だ。 今回こちらの記事をうけて、自分の感じている事を書いてみることにした。 ストリートフォトは、現代において難しいジャンルだと思っている。 肖像権と写真の文化という問題に、明確な答えが出されていないからだ。 SNSが一般的になったこの時代、撮られた写真が見も知らぬ他人の目に触れる機会は飛躍的

写真のあなたが見せる顔

人の撮影をしていて面白いな、と思う事の1つが。 ちょっとしたことで、ガラッと変化が起こる事かもしれない。 同じ相手を撮っているのに、印象がくるくると変わるのが面白い。 例えば、着るもの。 ジャケットの色が違うだけで、イメージも変わる。 柔らかなベージュのジャケットは、キリッとした黒よりも 女性らしい華やかさが強調される。 それから髪型もだ。 イベントなどで、ヘアメイクが入るとその効果がよくわかる。 ふんわりかわいらしく、と軽く巻いた髪型と控えめなメイクに… ロッ

写真が楽しくなかった頃

「人として」写真を撮るということについて書かれた文章を読んで。 ああ、となんだか腑に落ちた気分になった。 もう随分と昔の事になるのだけれど、写真が全然楽しくない時期があって。 何を撮っても、なかなかピンとこなくて。 何を撮りたいのかも、よくわからなくなっていて。 迷ってるなぁ、って自分でも感じていた。 今なら、その理由がわかる。 自分の為に、自分の心の為に撮っていなかったからだ。 写真教室での課題の為に、人に見せる為に。 あの時期は確か、そういう意識でシャッターを切

物撮りは、Don't think, feel. 方式で

物撮りって、人物を撮るのとはまた違った視点が必要とされるので… どちらかというと、苦手だなぁって感じていたりします。 もちろん、テーブルフォトの本に目を通したり。 他人の素敵な写真など、意識してみるようにはしているけれど。 「こう撮って欲しい」ではなくて。 「お任せするから、あなたのセンスで素敵に撮って欲しい」なんて。 そんな風に言われて、「はいはい、どうぞお任せあれ!」と スッパリ言い切れる程には…なかなか自信が持てないわけです。 でも、そう頼まれたからには頑張りた

Not 桜日和 ~桜と写真とカメラの話~

今年の春は、どうにも桜に優しくない。 梅雨みたいに曇りと雨の日が続いて、風も強い。 よく晴れた青空の日、桜の下でお弁当を食べている。 柔らかな風が吹いたかと思うと、ひらひらと唐揚げの上に花びらが落ちてきた…みたいなシチュエーションは、どうやら今年は望めないらしい。 ただ桜写真を撮る、という楽しみが損なわれたわけではない。 晴れの日には晴れの日の、雨の日には雨の日なりの良さと楽しみがある。 昨日のお天気は、曇り時々小雨。 そしてこの辺りには珍しく、霧が出ていた。 いつも

良い写真、愛せる写真

"良い写真"という言葉には、少し苦手意識があるかもしれない。 その意味の幅広さに、自分の足元がおぼつかない気持ちになるからだろうか? 他人の"良い"は、自分の"良い"とは必ずしも一致しなくて。 それどころか良し悪しというのは、その定義によっていとも簡単に変わる。 そんな不安定さを持つ言葉だからこそ。 他人の口から出る"良い写真"は何を指すか、とても曖昧で。 その言葉にもたらされる、「相手の規範に合わせなければ」という意識と「自分の感覚を貫きたい」という思いとの葛藤が。ち

写真沼に、片足を突っ込んで

写真って、その入り口に立った時に考えていた以上にずっと… 底なし沼みたいな趣味だった。 まず、道具がいる。知識がいる。 この時点で、すでに膨大な情報が目の前に山積みで。 それらをあれやこれやとつまみ食いしながら、先を進んでいると。 今度は自分と向き合うことを要求される、という段階に入る。 何が撮りたいのか、どう撮りたいのか、良い写真とは何か。 撮れば楽しい、では終われなくなってくるのがこの辺り。 そろそろ撮った写真が溜まってきたぞ。 ブックにまとめよう、写真展をしよう

写真には日常を、幸福を

これは人物写真、特にご家族での撮影に限った話なんだけれども。 "幸福の気配のある写真"を撮るのが好きだ。 それはおそらく家族写真というものが、"見返す"ことを前提にして撮るものだからだと思う。 例えば5年後10年後に撮った写真を見返した時。 その情景が物凄く幸せそうに見えたとしたら… 実際その時は結構大変だったり、しんどい思いが続いてたりしていても。 「あの時はあれはあれで、幸福だったのかもしれないな」 って思えるんじゃないかなって。 人間には、思い出補正という優しさ

ハレの日ではなく、日常こそを

昨年夏に、母が急死して。 母の写真を撮っておかなかったことを、非常に後悔した。 後悔についての詳細は、はてなBlogに書いたのでここでは省くけれど… (参照:「母の写真」 http://photalk.hatenablog.com/entry/2017/02/01/120100 ) 撮られるのが好きではない人だったというのもあって。 ここ10年の写真なんて、結婚式や同窓会や旅先でカメラに向かってニッコリした写真しか見当たらない。 まぁそれでも。面影を偲ぶのに不足という程