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「片時もクラスの子どもたちを忘れない」の二つ目の意味が恐ろしい!

教員生活を送っていた12年間、ボクは片時もクラスの子どもたちのことを忘れたことがなかった。

こんな言葉をいうとなんだかかっこいい感じがするかもしれない。

先生の鏡だ!と思う方もいるかもしれない。


しかし、「この片時も忘れない」というのは実は恐ろしいことでもあった。転職して約一年が過ぎようとしている今、ようやくそのことに気づいたのだ。


きっかけを与えてくれたのは、デール・カーネギーの「道は開ける」の中にある一節だった。

「リラックスを忘れることはゆっくりとした自殺である」

と、そこには綴られていた。(正確な表現は忘れたが・・・)


この一節を目にしたとき、走馬灯のように教員時代のボクの記憶が駆け巡った。

「昔のボクは、完全に自殺しようとしていた」

そう強く感じた。

そう!当時のボクは、「クラスの子どもたちのことを片時も忘れない」と同時にリラックスを忘れていたのであった。

もちろん、当時のボクは「自殺しようとしている」なんて、つゆとも感じずに過ごしていたのだが・・・。


このことを深掘りしてみると、”子どもたちを片時も忘れない”には、二つの意味があることがわかった。

一つは、もちろん”いい意味の忘れない”である。例えば、夏休み中などに、「今子どもたちは元気に過ごしているかな?早く会いたいな」といったようなものである。

問題なのは、二つ目の”忘れない”だ。正確には”忘れられない”といった方が正しいのかもしれない。

そこには、学校の大きなシステムエラーが隠れていた。

このシステムエラーに気づくことで、苦しむ先生が一人でも減ればと思い、この記事を書くことに決めた。


ボクは先日こんなツイートをした。


そう、子どものトラブルが全て担任の責任に帰結するというシステム(文化)が大問題なのだ。

このシステム(文化)があるせいで、専科の授業で空き時間になっていても、体調が悪くて仕事を休んでいても「子どもたち大丈夫かな?何かトラブル起こしていないかな?」と気になってしまう。

トイレにいっている間でさえもだ・・・。

なぜなら

「先生のクラスの子、またトラブル起こしていたよ」
「補欠で入ったけど、うるさくて大変だった。ちゃんとしつけてください」
「教室移動中も、静かにさせてください。迷惑です」

など、小言をいいたがる先生がたくさんいるからだ。


この担任を責めるという行為には「みんなでそれぞれの子を見守っていこう」という精神はない。

子どもの姿=担任の責任

という思考なのだ。

大元をたどれば、学級システム自体が悪の根元になるわけなのだが、それを今すぐ変えていくのは難しい。


ならば、少しでも教職員が意識を変えて、子どもの実態を担任の責任として押し付けるのはやめていかなければいけない。

子どもの姿をみんなで責任をもって見ていかなければいけない。

それができないと、いつまで経っても「子どもを管理しなければ!」と考える教員が増える一方だろう。

誰だって、責められたくはないし、責任を回避しようと行動するのは必然だからだ。


これでは、質の高い教育の実現なんて不可能なのだ。


本当に、「子どものため」だけを考えられる環境が必要だ。余計なノイズは排除しよう!


「いい意味で子どもを忘れられない」「幸せすぎる!」という先生が溢れることを願っている。


以上、ガクせんでした。

最後までお読みいただきありがとうございます。

良い一日を!

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