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「黒板を写しなさい」はもう古い?これからの書く力について考察

「黒板を写しなさい」

この言葉は誰しもが聞いたことのある言葉ではないだろうか。

そう、学校教育で乱発されている定番の言葉だ。

何を隠そう、ボク自身も教員生活12年間の中で幾度となく使ってきた。そんなボクだったが、教員生活の後半は子どもたちに「黒板を写す」ことを強制するのをやめた。

その理由についてこれからお話していく。


先日、ボクはこんなツイートをした。

そう、わざわざノートに写さなくたって今の時代はスマホでパシャリ!の時代だ。そのうち、Googleグラスのようなアイテムも当たり前になるだろう。

つまり、「黒板をノートに写す」という作業は完全に時代遅れなのだ。

にも関わらず、未だに学校教育は「黒板を写なさい」の文化のまま立ち往生している。

中には、めあてを写すだけで精一杯の子もいるのが現実だ。1時間という貴重な時間の中で、無思考にめあてを写してお終いなんてなんともったいないことか。

正直、めあてや問題なんてノートに写している暇があったら、めあてを印字してあるプリントを配って早いところ思考させた方が価値ある時間になるのは間違いのない事実と言えるだろう。


また、黒板を写すことが前提となっている学校文化において、子どもたちから「先生これ書きますか?」という声が頻繁にあがるのも現実だ。このことについてもボクは危機感を感じていた。

つまり、自分で考えて選びとる力が育たないのだ。

また、こんなツイートもした。

これでは、何のために板書を写しているのかもわからず、二度と見直すことのないノートをひたすらと写し続けることになる。まるで、修行でもしているのだろうか、罰でも与えられたのだろうかとさえ感じてしまう。

もしも「黒板を写す」のであれば、それは主体的、能動的なものであってほしい。写すメリットを子どもが感じて実行されるものであってほしい。

決して、強制のもとにするものであってはならないと思うのだ。


だからと言って、ボクは完全に「書く」という行為を否定しているわけではない。

「書く」ことの機能を知れば、その理由がわかる。

そう、「書く」には

✔︎記録(写す)
✔︎練習(何度も書いて覚える)
✔︎思考(自分の考えを書き出す)

という3つの機能がある。

この機能をしっかりと先生が理解して授業を構成していく必要があるとボクは考える。

つまり、記録(黒板を写す)ではなく、思考のためにノートを使うのだ。1時間の中で思考場面をたくさんつくるのだ。

ノートを見返したとき、思考に溢れたノートになっていたならば、その時間は、子どもにとって有意義な時間であったと言えるだろう。いい授業だったと言えるだろう。


これから先、1人一台タブレット、1人一台パソコンの時代になってくる。インフラが整ったとしても、先生のOS(考え方)が「黒板を写すのは当たり前」では、宝の持ち腐れになりかねない。

機器の導入と共に、個体観念や今までの慣習に縛られず、どんどんOSをバージョンアップさせることのできる先生は、これからの教育に欠かせない存在になるだろう。

そんな思いを抱きながら今回の記事を書かせてもらった。

未来の教育がより良いものになりますように。


以上、ガクせんでした。

最後までお読みいただきありがとうございました。


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