見出し画像

研究授業のあり方を問う!あなたはどう考える?

どうもガクせんです。

ボクは12年間小学校教員として勤めてきたのですが、その中で苦しむたくさんの先生たちをみてきました。

もちろんボクもその中の一人だったのですが・・・。

その先生を苦しませる原因は様々あるのですが、今回は、中でも「これはおかしい!」「なんでこんなのが残り続けてきているのだろうか?」とボクが感じていたものについて綴っていきたいと思います。

そう、ボクがこれから綴っていきたい「おかしいと感じたもの」とは

研究授業

です。

「え!先生たるもの研究授業するのは当たり前でしょ!」

と教員経験者の方ならスリッパで頭をスコーンとひっぱたきたくなるかもしれませんね。

もちろん、授業が本業である先生にとって授業を研究することは欠かせないことだと思います。

しかし、今の研究授業のあり方は本当にベターだといえるでしょうか?

ボクはそうは思いません。

その理由についてこれから綴っていきたいと思います。

あくまでボクの主観ですので、共感できるところ、そうでないところを考えながら読み進めていただけるとありがたいです。


まず、ボクが研究授業において「おかしい!」と感じたことを列挙させてもらうと以下の通りになります↓

①子どもを使ったただの発表会になっている。
②普段絶対やらない授業を提案する人が多い
③研究授業が神格化されすぎている
④やる前から、色々なノイズが入り、自分がやりたい授業ができない
⑤事後研では、マウント合戦になりがちで授業者の心が満たされない。
⑥授業研究の結果うんぬんで、先生の優劣ができてしまう(競争原理を生み出してしまう)

詳しく解説していきます。


【まずは、①から③について】

①子どもを使ったただの発表会になっている。
②普段絶対やらない授業を提案する人が多い
③研究授業が神格化されすぎている

とにかく、研究授業というもの自体が最重要視されていることが大問題だと感じていました。

中には、あまりにも重んじすぎて、研究授業に向けてクラスをつくりあげようと考える先生も多くいました。正直いってしまうと、一時のボクもこの罠にハマってしまっていました・・・。

・研究授業で、子どもたちがたくさん発言している姿が見せられるように、今のうちから子どもの発言力を鍛えよう!
・研究授業で、子どもたちが活発に話し合っている姿を見せられるように、今のうちから話合い活動をたくさん取り入れていこう

これでは、なんのための授業なのか・・・。研究授業が目的化されてしまうと、「子どもの成長のため」という本来の教育の意義が見失われてしまいます・・・。

そもそもの話になってしまうのですが、なんで普段はジャージで授業してるのに、研究授業はスーツでなければいけなのでしょうね。子どもを軸に考えれば、先生は普段のままの方がいいのに・・・。要はそういうことなのですよね・・・。

この評価の目に対する気持ちが強すぎるために、結局は普段やらないようなド派手な授業をし、子どもを使った先生の発表会のようになってしまうのです。

ボク自身も、校外からの参観者がたくさん集まるような研究授業をした際は、多大な労力をかけ、誰もマネできないような再現性のない授業をぶちかましてしまったものでした・・・。

参観者からは「すごい授業だった!」とお褒め?の言葉をいただいたのですが、その後、自分自身でさえも2度と同じ授業をやることはなかったです。

なんせ、普段はそんなに一つの授業に労力をかけていられませんからね。

要は、「研究授業のため」だけの発表会授業だったのです・・・。反省!

研究授業を神格化しすぎてボクと同じような罠に陥らないように注意してくださいね。


【次は、後半の④から⑥について】

④やる前から、色々なノイズが入り、自分がやりたい授業ができない
⑤事後研では、マウント合戦になりがちで授業者の心が満たされない。
⑥授業研究の結果うんぬんで、先生の優劣ができてしまう(競争原理を生み出してしまう)

研究授業をする前には、必ず指導案検討というものがあります。先生ではない方のために簡単に説明すると

授業者が、「私はこういう授業をしたいと考えています」と提案し、それについて他の先生たちから「ああした方がいい」「こうした方がいい」とアドバイスを受けるといったものです。

もちろん、指導案検討を通して、授業者はもちろん一緒に検討する先生にも多くの学びがあるのですが、これがいきすぎると、「自分のやりたかった授業ができない」という大きなデメリットに繋がります。

特にご意見番みたいな先生に「これでは絶対失敗するから、こうしなさい」と言われてしまうと、若い先生方は自分の授業を変えざるをえません。

中には、ノイズが入りすぎて何をどうしていいのかこんがらがってしまう授業者も数多くみてきました。

「言うは易し、行うは難し」という精神はどこえやら、とにかく自分の知識をひけらかしたくて好き放題いってしまう傾向があります。

そして、授業がうまくいかなければ、言いたい放題いっていた先生は知らんぷり、うまくいけば「ほらいった通りでしょ!」とドヤ顔。(スミマセン極端な例です)

つまるところ、授業の結果は誰も引き受けてくれないということです。

だったら、「授業者がやりたい授業をやらせてあげた方が、失敗しても成功しても大きな学びになるのにな」と常に感じていました。


そして、事後研でも「言うは易し」の原理が働き、「ああすれば良かった」「こうすれば良かった」のマウント合戦。

中には、上から物申している自分に気持ちよくなっている先生すらいました。

そして、最後は講師の先生のありがたい話で締めくくる。

講師の先生も含め、事後研では「じゃあ、あなたが実際にやってみせれば?」とツッコミたくなる場面が多々ありました。


そしてとどめは、その研究授業の結果うんぬんでその先生の良し悪しが決まってしまうということ。

たかが年一、二回の授業でその先生自体の指導力、授業力が評価されるという残酷な現実。

結局、研究授業で結果を残してきている方が出世していくわけで・・・。

それ故、研究授業に全てをかけてしまう先生が増加してしまうのは必然ともいえるのですね。

その、一つの授業のためにどれどけの時間と労力を犠牲にしてしまうことか・・・。

おそらく、多くの先生は、「多大な労力をかけた」が「あまり成果はえられなかった」という認知不協和を脳が解消しようと、「大変だったけど意外と楽しかったかも」と認識してしまうのです。

でも、冷静になってください!

どう考えても今のやり方は、メリットよりもデメリットの方が明らかに大きいでしょう。

✔︎本当に「子どものため」になっていますか?
✔︎本当に、「やってよかった」と思えていますか?(「やっと終わった!もうやりたくない」と思っていませんか?)

この視点から目をそらさないでほしいのです。


少なくても、ボクは「研究授業楽しい!」「研究授業たくさんやりたい!」という先生に出会ったことがありません。

みんな(ボクが出会ってきた方)、研究授業のせいでハッピーになれずにいました。暗い顔をしていました。

そんな、先生がハッピーになれない研究なんて子どものためになるはずないじゃないですか!

子どもにとっては、見栄えのいい授業なんかより、何百倍も「先生の笑顔」が栄養になるのです。


そんな思いを込めて先日ボクはこんなツイートをした。

そう!そんな神格化され、全てを犠牲にして臨む授業研究なんかより、毎日の授業に自信をもって臨める余裕の方が大切なのです。

「研究授業がない」といった心の余裕だけでも普段のパフォーマンスが上がるかもしれません。


厚化粧した研究授業より、普段のスッピン授業を気軽な気持ちで見合った方が参観した先生も取り入れやすいのです。

他にもやりようはいくらでもあるでしょう。

重ねて言いますが、今のやり方がベターではないのは明らかです!

みんなで、子どもも先生もハッピーになれる方法を見つけていけるといいですね。


以上、ガクせんでした。

最後までお読みいただきありがとうございます。

良い一日を!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?