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「子どもになめられるな」と考えた時点で逆に子どもになめられる話

「子どもになめられたらダメ」

これは、ボクが教員になりたての頃に先輩から教えられた言葉だ。

紛れもなく、先輩はボクの成長を願い、愛情をもってこの言葉をプレゼントしてくれた。

しかし、実際に12年間、小学校の先生として子どもに接してきた結果、この言葉は間違いであると心の底から断言できる。

なぜなら、身を呈して子どもたちがボクに教えてくれたからだ。

今回はそのことについて綴っていきたいと思う。


「子どもになめられたらダメ」と教えられたのは、ボクが初任の頃だった。先輩は口をすっぱくするようにボクにこの言葉をいい続けた。

当時のボクは、理想の先生像というものがまだ定まっておらず

「そうか!なめられたらいけないんだな」
「いい先生とは厳しく子どもを管理できる先生なんだな」

と勝手な解釈をしていた。

しかし、そのボクが目指した先生像は脆くも打ちひしがれることになる。



それは、ニ度目の6年生担任を経験した時だった。

「この学年は大変だから気を引き締めて臨んでね!」鋭い眼差しで校長から警告されたのを今でもありありと覚えている。

そう、その学年は、前年度にも学級崩壊を起こしており、いわくつきの学年であった。

「あの学年をもったら大変だよね」そんな声が職員室のあちらこちらから聞こえてくるような学年だ。

ボクは、尚更「子どもたちになめられないように!」と心に強く刻み、厳しい態度で子どもたちの前に立った。

それが、間違いの始まりだったとはその時のボクはまだ知るよしもない。


年度当初、ボクはいつもの調子で、子どもたちに厳しいルールを課し、自分の管理下においた。一切の妥協の許さず、統率の取れたクラスを目指した。

子どもたちは、ボクの命令に従い、目立ったトラブルもなく順調にいっているかように思えていた。


しかし、彼らの中には、ボクに対する憎悪の芽が確実に育っていたのであった。

次第に彼らはボクの命令を聞かなくなり、反抗的な態度をとるようになっていった。

まるで「お前のことなんて少しも信頼してねぇ」「俺らにとってお前は敵だ」といった態度だった。

あの時のボクを睨み付ける子どもたちの目は今でも脳裏に焼きついている。


それからというもの、授業中のおしゃべりが止まらなくなり、掃除をサボるなんて朝飯前・・・。

ますますボクの注意が増える。そして、その分だけ、また彼らとの心の距離が離れていく・・・。

悪循環とはまさにこのことだ。どうしていいのかわからない・・・。

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その時、初めて「自分は間違った先生像を目指していた」と気付いたのだった!「ペシッ」と頬を平手で叩かれたような感覚だった。

「自分は何のために先生になったんだ!」
「本当に、子どものために誠心誠意やっているのかよ!」
「今やっていることは全然子どもたちのためになっていないじゃんかよ!」

そんな言葉が頭を埋め尽くしていた。


ボクは、権威主義を手放し、心の底から子どもたちに寄り添い、子どもたちを愛そう!と決意した。


また、ようやく本当の意味で「いい先生とは何か」についても模索するようになった。


ボクが見つけた「本当にいい先生」についてはこちらの記事をどうぞ↓



紆余曲折ありながらも、ボクを目覚めさせてくれた子どもたちとは涙涙の卒業式を迎えることができた。


精密検査を受けるまでに心も体も衰弱した時期もあったが、本当にこの辛かった1年間、そして身を呈してボクの暴走を止めてくれた子どもたちには感謝でいっぱいだ。


「子どもになめられるな」と考えた時点で、子どもからは「この大人はダメだ」と逆になめられることになる

そんなことを教えてもらった一年だった。


本当の意味で、子どもに信頼されたいのであれば

子どもと、縦ではなく横の関係を築くこと
子どもを心底信頼すること
子どもの失敗を許し、広い心で温かく包むこと

が大切になる。

決して「なめられてはダメ!」なんて考えてはいけない。


誰だって信頼されなければ、信頼することなんてできないのだ。

だからこそ!
まずは大人から信頼の矢を放ち、どんなことがあっても子どもたちの成長を信じ、愛し抜く!

この気持ちが大切なんだとボクは学んだ。


もう、ボクのように間違った先生像をもつことで、苦しむ先生や子どもたちを出したくない。

そんな気持ちでこの記事を書いた。

「なめる」「なめられる」といった言葉が教育界の辞書から消えて無くなることを願っている。


以上、ガクせんでした。

最後までお読みいただきありがとうございます。

良い一日をお過ごしください。

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