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蝶のように舞えない 4話


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「あん先生は変わりもんだっけん」

 宇宙飛行士のような椅子に全身を預けている兄は、色舞を見もせずに言った。

「気にすっことねえ。おつむが良すぎっから、おかしくなっちまったんだ」
「そうかしら」

 兄はテレビ画面の中でゾンビを撃った。
 色舞はちゃぶ台の下に置いている、自分の座布団を引っ張り出して、兄のそばに座った。高低差があるため、兄のひざに頭を乗せても、それほどおかしくはない。

「あじした。甘えんぼか?」
「耳飾りが重くて、首が疲れるんです。ふかふかね、この椅子」
「ゲーミングチェアさ妥協すっと、快適なゾンビ退治さできねえ。おめえにも座らしてやろうか?」
「いいです。ゾンビ退治をしないもの」

 兄の着物はブルガリの香りがする。香を焚いている父とは、こういうところが違うのだ。色舞は思う。本当に、洋服を着たらいいのに。ヘアバンドで上げている長い髪も、邪魔ならば切ってしまえばいい。そうすればさっぱりして、ずっと素敵になると、昔から言っているのに。

 ぎゃっと短い悲鳴をあげて、兄はコントローラーを放り出した。

「画面さ注目させておいて、バンと怖い映像さ出すのは反則だべ。そうすりゃあ怖気づくべと思ってんだろうが」
「怖い思いをしたいから、こういうゲームをなさるんでしょ? 怖がらせてくれるのなら、ありがたいことじゃないの」
「ビックリで誤魔化すんじゃねえと言ってんだ。大きな音と怖い画面さ出てきたら、そりゃ怖いっけんが、深みってもんがねえ」

 言っていることは理解できるが、真面目に返事をするようなことでもないだろう。色舞は黙って目を閉じる。
 兄に触れていると心が安らぐ。こうしているときは、世界のなにものも、色舞を傷つけることはない。
 このままでいたいと思う。あるいは、どこかへ行ってしまいたいと。

 小さなログハウスを思い描いた。絵本に出てくるような、現実感のない、ウエハースのように可愛らしい小屋だ。外にはもちろん大きな切り株がある。父は木こりになり、兄はそこで薪割りをする。小屋の中では色舞がシチューなどを作っている。
 洗濯のことや、風呂のことや、収入源については、今は考えないことにする。自分たちの体質についてもだ。

 自分が作っているシチューについて、色舞は考えを深めてみた。絵本ではウサギの肉が入っている。父はウサギも獲ることにしよう。
 小屋の裏には畑を作って、そこでジャガイモとにんじんを作る。毒のない緑色の葉くらいは、どこにでも生えているだろう。料理をしたことのない色舞は、それでシチューの見栄えは問題ないわ、と考える。
 それを盛り付けるのは、木の器に決まっている。父の伐採した木から、兄が彫り出すのだ。もちろん揃いのスプーンも。

 ――スプーンは無理だわ。

 他のあらゆる問題を無視しているのに、なぜかそこが色舞の空想でネックとなる。

 兄が木からスプーンを作る。不可能なことを示すことわざだ。自分がにんじん畑を作ることの実現性は棚に上げて、色舞は兄の生活力のなさを嘆く。

 父は怠惰な男だが、色舞が頼めば、それこそ小さな別荘くらいは建ててくれるかもしれない。3人で暮らしたいと言えば、それも聞いてくれるだろう。木こりにはならないだろうし、ウサギを狩るのも嫌がりそうだが――つまり、ごくつぶしと言えるが―――、色舞のために文明から離れることは、してくれるように思う。電気のない時代を暮らしたこともある男だ。

 ――兄さんはだめね。

 最新の人間工学に基づいた全身チェアに座り、PS4でバーチャルリアリティを楽しみたい兄に、大草原の小さな家の生活は酷だろう。

「父さんはごくつぶしだけど、兄さんはその上を行くわね」
「あんだ急に。俺は色男だっけん、金と力はねえんだ」
「父さんは色男だけど、お金はあるわ」
「娘ッコ騙して銭さ取って、それが立派か?」
「清廉潔白な稼業だとは思いませんけど、仕方のないことでしょう。この椅子だって、誰が買ったんですか」
「父様の陰口さ言いたいわけでねえ。俺が働かねえことさ正当化したかっただけだ」

 ろくでもないことを艶のある声で言って、兄は優しく色舞の髪を撫でた。

「プロゲーマーという職業もあるのでしょう? 聞いたことがありますよ」
「俺はゲームも下手だ」
「何ならできるんですか」
「憲法に守られてねえ俺たちには働かねえ自由もある」
「別の法に守られています。現行法では、働かなくても構わないが、納税をせよと。掃除の手が足りていませんから、募集をかけていますよ」
「おめえは相変わらず、長老の手伝いさしてんのか? 土地とかもらったのか」
「資産運用をお手伝いして、教わっているだけです。土地を相続するとしたら父さんで、手続きの代行に立つのが私や蘭香になります」
「なじょしてだ。おめえらが女だからか?」
「いいえ、年若だからです。それに土地なんてもらっても困るでしょう」

 村や街にいくつか有しているアパートや駐車場ならばともかく、人を立ち入らせてはいけない山など、持て余すだけだ。
 色舞が欲しいものは、小さなログハウスと、ちょっとした庭が作れるだけの領域である。50平米でいいだろう。
 それは、すでに持っていると言ってもいい。たとえばここから少し登ったあたりを開墾して、小屋を建てたいと申請すれば、長老は「別にいいんじゃね」と言うだろう。

「兄さん、木こりか猟師になる気はないの?」
「あじした二択だ」
「山の民としての職業選択よ。自給自足の象徴というか」
「俺らが自給自足したら、はあ天狗だべ。人さらって、服さ剥いで、それさ着て」
「文化的な天狗になればいいでしょう。人はさらうけれど、イノシシの毛皮で服を作って」
「猟をするにしても、イノシシを売った金でユニクロの服を買う方が文化的だと思うが」

 あまりのマジレスのためか、標準語になっていた。
 色舞はふくれる。兄の涼しげな顔を見上げた。

「そうじゃなくて、もっと概念的な話です。ユニクロには行ってもいいけれど、つまり、こう」
「大草原の小さな家をやりてえわけだな」

 さすが、血が繋がっているだけはある。

 血の繋がった兄は、幼子を見るように笑った。

「無理だべ。そん暮らしは」
「わかっています。静かに暮らしたいだけ。父さんと兄さんと、私だけの小さな家で」
「そんは惚れた男と抱く夢だべ。女でんいいっけんが」
「家族で暮らしたいというのは、そんなにおかしな話かしら」
「してみてできねえこともねえべっけん、結局俺らは、こん山から出れねえんだ。屋敷だけおん出てみたところで、そんなもんはあキャンプだべ」
「そうよね」

 身体の弱い兄は、人里で暮らしていくことはできない。
 山の中に小屋を建ててみたところで、それは兄の言うようにキャンプだ。生活の文明度が下がるだけである。

「……要するに私は、私のために働いてくれる父さんと兄さんがほしいのかもしれないわ」
「ナンセンスだ」

 働く気のない兄は色舞の頭をぐりぐりとした。

「男が働き手なんちゅうのは前時代的だべ」
「わかっています。これも概念的な話です。そういう気分になりたいだけ」
「俺や父様が、おめえのために汗水たらして働いて、そんがおめえの幸せか」
「一度、その種の幸せに恵まれてみたいだけです」

 要するに、疲れているだけだ。宝くじを当ててハワイにコンドミニアムを買う、というのと同程度の空想である。
 朝起きて、洗面所に行くと、誰かが顔を洗っている。そんな生活が少し嫌になっただけだ。化粧をしたくない日もある。蘭香に気を使いたくない日も。万羽に怯えるのも疲れた。

「私、性格が暗いのかしら?」
「明りい暗えは知らねえっけんが、おめえは優しくて可愛い。みいんなそう思ってる」
「そうかしら。私は意地悪だわ。スタイルも良くないし、顔だって」
「馬鹿たれが。おめえは世界一だ。伯母さんが亡くなったっけん、繰り上がり当選だ」
「此紀様を世界一だと思っていたのね。マザコンだわ」
「義理の伯母んことさマザーと思ってる、おめえのほうがマザコンだべ」

 若い者の中には、色舞の兄の言葉を理解できないと言う者もある。麓の村でも、これほどべたべたの方言を喋るのは、もはや年寄りだけだ。
 しかし、単語とニュアンスがわかれば会話など成立するだろうにと、色舞は不思議に思っている。

 ――そこは愛の仕事だな。

 以前、父がそんなことを言っていた。言葉が通じても心が食い違うことがあるように、心さえ通じていれば、細部はどうにでもなるのだと。

 兄の言葉がわかるうちは、ここに愛があるのだろうかと考えて、色舞はぼんやりとした。




 火事を危惧したのは、自分だけではなかったようだ。

 髪の短い男が、消火器を持ってこちらへ歩いてくる。この屋敷のどこにでも置かれているものだ。
 通り過ぎようとしたところを呼び止める。

「大丈夫なのか?」
「ええ。蘭子ちゃんがアップルパイを焦がしていました。あの子はぜんぜん料理が上達しませんねえ。才能がないんですかね」
「ランコ?」

 男は少し考えるような顔をしてから、ああと言った。

「蘭香ちゃんです。似合わないワンピース着てるけど、まあまあ可愛い」
「顔はわかる。長老のお孫さんだろう。言葉には気をつけたほうがいいんじゃないのか」
「ボケ老人とドラ孫娘ですよ。お飾りの長老と代行に、たいした執行権があるもんですか」

 近頃はよく聞く類の軽口であるが、そこにわずかの違和感を覚える。
 男の名前を、いや、男ではないことと同時に思い出した。

「白鷺か」
「白鷺ですが。ごきげんよう、狭野さま」

 ざっくりとしたセーターにジーンズ。寝ぐせの残る髪。細身の男に見えるが、麗人ではある。
 麗しい白鷺は、廊下の隅に消火器を置いた。

「どう考えても、そこにあったものじゃないだろう」
「ま、別にいいでしょ」
「消火器ほど所定の位置になければいけないものも珍しいと思うが」
「有事っぽい気配を察したら、即座に消火器を持って駆けつける行動力、これを評価してほしいもんです」
「それは、確かに」

 焦げ臭い空気は厨房の方から流れてくる。
 ほかにも、この臭いを感知している者はいると思うが、大事ならば誰かが何とかすると思っているのだろう。
 古い木造家屋に住んでいる身において、火災はもっとも注意すべき事態である。危機意識が足りていない。

 形ばかり消火器が置かれているが、実際に扱える者が何人いるのか。自分も怪しいものだと狭野は思う。数年前、設置が決まったときに、説明だけは受けた気がするが。

 それを考えると、確かに白鷺は立派である。

「父に伝えておく」
「何を? ああ、私の行動力ですか? いいですよそんなもん。私の名前もご存じないでしょうし」

 白鷺はさわやかに前髪を払った。
 中性的な骨格の持ち主であるが、それでも髪型や服装を整えれば、見違えるような美女になるだろう。
 一族には、たまにこの手の者がいる。髪を短くしているのが特徴だ。自分の姿にあまり関心がなく、古い習いを無視する。化粧をせず、性別のわからないような服を着る。
 ある種の聖性を感じなくもないと言う者もあるが、実際のところは無精なだけだろう。白鷺のセーターには毛玉ができている。

 長く伸ばして手入れした髪や、乙女の織った絹から作る服に、霊気が宿ると言われていた時代がある。
 身なりが美しいから高貴なのではなく、高貴であるから美しくできるのだろうよと思うが、まあ着飾ることに文句をつけるつもりはない。被服も化粧も刺青も、すべてはまじないだ。いい服を着れば気が引き締まるというのなら、そうしたほうがいいだろう。髪を巻くことで楽しくなるというのなら、それもそうすればいい。

 自分たちの一族は二極化が進んでいる。あえて大雑把に言うならば、ユニクロ派とギャルソン派である。
 洒落ることの象徴がギャルソンというのも、時代が20年違う気もするが、愛好する者が多いのだから仕方ない。かつて流行り、そして定番化したのだ。

 その分類を行うならば、自分と白鷺は、間違いなく同じ種である。押しも押されもせぬユニクロ主義者だ。
 服など、寒くないだけ着ればいいと思っている。それでは寂しいわと姉が言うから、ワンポイントのついたものを選ぶようにしているが。

「西帝ちゃんはいかがですか」
「え?」

 白鷺は眼鏡をかけるしぐさをした。

「目の具合はどうなんですか」
「変わらない。まあ、大丈夫だ」

 頭痛を訴えているなどというプライベートな近況を、医師以外の者に話す必要はあるまい。
 白鷺は「そうですか」と神妙に言った。

「私の子も目を悪くしたんですよ。だんだん眼鏡の度をきつくしてね」
「子供がいるんだったか」
「もういませんが。目というよりは、神経というか脳というか、そっちの損傷だったみたいですね。だから西帝ちゃんのことも心配で」
「――そうか」

 日のほとんどを人里か自分の部屋で過ごし、屋敷の者に関わらないようにしている狭野には、白鷺の子の顔もわからない。
 白鷺のことも、長老の従者として気に留めていただけだ。年齢も知らない。

「気にしてくれて、ありがとう。西帝にも伝えておく」
「それはぜひお願いします。たまには私の部屋にお茶でも飲みに来てね、ともお伝えください」

 社交辞令とも思えぬ調子で言って、白鷺は一礼すると去って行った。

 さてと、置いて行った消火器を見る。戻した方がいいのだろうが、どこから持ってきたのやらわからない。

「兄貴」

 白鷺の歩いて行った側とは反対の、玄関の方から西帝が歩いてくる。

「なあ、なんか焦げ臭いよな? 台所のほう?」
「大丈夫だそうだ。いちおう見に行くが」
「そう。あ、いて。何?」

 消火器に足をぶつけている。こういう意味でもよくないなと気付き、近付いてそれを持ち上げた。

「白鷺が、お前によろしくと」
「喋ってる声は聞こえてた。よろしくって、何が?」
「たまには茶でも飲みに来いとか」
「はあ。俺、白鷺さんのそういうとこ苦手なんだよな。俺を見て、白威さんとか桐生のことを思い出すのかもしれないけど」
「白鷺の子供か?」
「片方はそうだよ。もう片方は、あ」

 ぼんやりと宙を見るようにして、西帝は言葉を止めた。
 中指でサングラスを押し上げ、深刻ぶった顔を作り、狭野を見た。

「あなたのクリアランスには開示されていない情報です。忘れてください」
「お前が最近言うそれ、ギャグなのか? それとも本当に、親父のアレと同じようなやつなのか」
「ギャグだよ。本当は姉さんに顕現するはずだったんだと思う。石段を転げ落ちたから、俺に来たんだ」
「何を言ってる? 石段?」
「未来視じゃなく、過去の記録簿。あんたには感謝してる。俺を選んでくれて、ありがとう」

 強い薬が効いているときの西帝は、うわごとを言うことがある。
 今は少し違う。西帝は、自分たち三兄弟の中でもっとも父に似ている。容姿ではなく、超越的な視座が。
 追求しようとは思わない。下々の捉え方を問わず、神秘はそこに鎮座する。

「運動はどうだった」
「うん。運動すると無駄に体力を使うから、生物として効率の悪い行動だと思ってたけど、気分がよくなる感じはあるね」
「医者も推奨してたから良いことなんだろう。あと、診察室に行け。やっぱり診てもらったほうがいい」
「別にいいよ。行ったところで良くなるわけじゃなし」
「悪くはなる。お前は白鷺の子のことを知ってるんだろう」

 西帝は聞き流そうとしている。
 もう一押しすることにした。

「お前の調子が悪くなったら、姉貴も俺も悲しむ。俺たちを悲しませないでくれたまえ」

 効果を上げようとしたら芝居がかってしまった。

 西帝は鼻から息を吐いた。

「わかりましたよ。近いうちにかかるよ」
「明日までに」
「はいはい、わかりました。あとはなんですか、兄貴殿」
「そろそろ冬の日誌を出せと親父が催促してる」
「目をやってからこっち、ディスプレイもろくに見えないのに、容赦ないよな」
「音声入力があるだろう。他のことは手伝ってやるが、医者にかかるのと日誌を書くのは、お前じゃないと駄目だから」

 うんと西帝は素直に頷いた。

 そのとき、きゃあという女の悲鳴が聞こえた。台所のほうからだ。つまり、蘭香の声だろう。
 西帝が中国風のポーズで身構えた。

「大丈夫だ。俺が見てくる。長老のお孫さんが、また不味い菓子を焼いてるらしい」
「ああ。そんなに不味いとも思わないけどな。引き取り手がいなかったら、もらってきてやって」
「わかった」

 消火器を抱えたままだということに気付いたが、本当に火が出たという可能性もある。持って行ったほうがいいかもしれない。

「診察室に行けよ。今日の夜までに」
「期限短くなってるじゃん。行くけどさ。女の部屋に夜行くのも失礼だろうよ」
「じゃあ明るいうちに行け」
「どんどん短くなるのかよ」

 もう一度、きゃあと蘭香が叫んだので、消火器とともに向かうことにした。


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