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蝶のように舞えない 3話


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 あの女医は実に色気があると、豊満なバストや太ももを思い起こしながら、東雲は焦れるように考える。
 近頃では、消毒液の匂いを嗅ぐと、反射的にやましいことが思い浮かぶほどだ。
 恋かもしれんとつぶやくと、「性欲ですよ」と助手席の男はそっけなく言った。

「聞いてる限り、身体のことしか考えてないじゃないですか」
「そうだとしてもだ。恋と性欲に何の違いがある?」
「まあ、その方向で言い張るなら、別にいいと思いますけど」

 いつも話があまり往復しない。
 ものわかりがいいとも言えるし、関心が薄いとも言えるのだろう。もう少し話題を引っ張ってくれてもいいと思うのだが。

 カーステレオからはラジオが流れている。正確には、リアルタイムの放送ではなく、録音したものだそうだ。Bluetoothで繋げたデバイスから再生している。
 東雲はラジオなど聴こうと思って聴いたことはない。このパーソナリティの話は面白いが、爆音で洋楽を流した方がテンションは上がる。

「ラジオの電波なんて山の中に入るんだな」
「ラジコなので」
「ラジ子? 女?」
「いえ、まあ」

 会話が終了してしまう。

「説明してくれよ。俺のラジオは女だから感度がいいんだぜ、とかいう下ネタ?」
「いや、ネット回線でラジオを聴けるサービスがあるんですよ。だから屋敷でなら大丈夫です。このへんだと駄目ですね」

 携帯電話の電波やWi-Fiに繋がるのは、山の中では屋敷の周辺だけだ。いま自動車を走らせている山道では圏外となっている。
 受信エリアを広げる予定はないと、誰かに聞いたことがある。当然の話だ。登山者などを排除するために、道路にアスファルトも敷いていないのだから。ガードレールもない。

 山に住まう者たちは、みな運転技術が高くなる。そうでなければ滑落するからだ。
 幾度か事故を起こした者は、前科持ちとして運転を制限される。運転が困難であると判断される者も、当然そうだ。
 後者に類する西帝は、デバイスをいじってラジオの音量を上げている。ぼんやりとならば手元のものくらいは見えるのだそうだ。

「君は性欲とかどうしてんの?」
「すごい直截なハラスメントしてきますね」
「ん? ああ、ごめん」

 心配したつもりだったのだが、言われてみれば二重三重のハラスメントになっている。この理解の遅さが自分の老いなのだろうと、若者と話しているとよく感じる。
 沙羅も自分と似たタイプの年寄りだと思っていたが、近年、やけに速いエンジンが搭載された。
 自身が被害者の側に回ったためだろう。パワー、セクシャル、モラルの主要三冠をおさえている。

 当事者だけが理解者であると考えるのは、短絡的で愚かなことだが、沙羅についてはそうだろう。かつては東雲よりも無神経な女であった。

 それでも、あの頃の彼女のほうが好きであったと、東雲はどこかで思っている。

「体調でも悪いんですか」

 唐突に心配された。
 ぼんやりと考え事をしていたから、なにか話を聞き逃したのかもしれない。

「なんで? 絶好調だが。いつもより重いバーベル持てたし」
「診察室へよく行くんでしょう」
「ああ、違う違う」

 急勾配の道に差し掛かり、強めにアクセルを踏み込む。

「ピアスの穴が化膿したときなんかに消毒してもらうだけだ。だからよこしまな目で見るような余裕があるんだよ」
「まだ増やしてるんですか」
「最近は開けてねえが、古いのも手入れが悪かったりすると膿んでくる。俺たちの身体は代謝が悪いから、本当は開けねえほうがいいらしい。色舞ちゃんもピアスをイヤリングに作り替えてたな」
「色舞さんって、いい匂いしますよね」

 何かの比喩表現かと思ったが、補足はなかった。

「どういう意味?」
「意味って、そのままですけど。なんかリンゴみたいな匂い」
「そうか? わかんねえなあ。俺が消毒液の匂いに興奮するようなもんか」
「はあ、まあ」
「適当に返事すんなって。違うだろうよ。俺のは性欲なんだし」
「俺のも性欲じゃないとは言えません」
「へえ! あんなになだらかなのに? あ、悪い、あんまり見えねえのか」
「いや、前は見えてましたから知ってますよ。別に胸は大きくなくても、色舞さんは綺麗でしょう。声も落ち着いてて聞き取りやすいし」
「そりゃ不細工じゃねえが、わざわざ言うほどか? 典雅様の子にしてはパッとしねえつうか」
「性格もいいんですよ。なんか、出しゃばらないというか。これ上から目線だな。そうじゃなくて、声をかけてくれるタイミングがちょうどいいんですよね。周りをよく見てて、忖度もしてくれるんです。それでいて同情って感じじゃない」
「結構マジで好きなの?」

 珍しく饒舌であった西帝は、そこで口をつぐんでサングラスの位置を直した。

 これをからかうのは、ハラスメントどうこうではなく、野暮というものだろう。明治生まれの東雲はそう判断して、黙って車を走らせた。



 いつ見ても迫力のある胸元だと、色舞は羨望のため息を漏らす。
 迫力のある胸元を持つ女医は、心配そうに顔を曇らせた。

「大丈夫ですか、色舞さん」
「ごめんなさい。途方もない考え事をしていたんです」
「あなたの場合、あまり物事を考えすぎるのも良くありません。難しいと思いますが、なるべくリラックスして」

 長い金色の髪をクリップでまとめ、ユニクロと思しい無個性なカーキのハイネックを着ているが、それでも和泉は輝かんばかりだ。
 明るいブルーの瞳が、貴石のようだと思う。どれほど地味な服装でも、首から上がすべてをカバーする。そして首の下には迫力がついている。
 色舞は猫背になった。自分のことをそれほど醜いとも思わないが、和泉にかなうものは何もない。

 せめて身長がもう少しあればと、女としてはやや珍しい望みを色舞は持っている。長身であれば、胸の薄さも恰好がつくのではないか。
 高い身長も胸の厚さも併せ持つ和泉は、金色のまつ毛を伏せてタブレットディスプレイを見ている。

「色舞さんの場合、頭痛も胃痛も、心因性のものと思われます。軽い鎮痛薬なら処方できますが――」
「そうですね。自分でもわかってはいるんです。根本解決が必要だわ」
「いいえ、それは性急に考えなくてもいいんです。解決しようと思ってできるのなら、誰も悩みません。解決を焦るよりも、たとえば運動だとか、なにか気の晴れることをしてみることが現実的です」
「運動ですか」
「ストレスに体調が引っ張られるように、逆も同じことが起こりえます。そのポジティブで簡単な例が運動です。身体を動かすと、精神によい作用があらわれます」

 医者が言うなら正しいのだろうが、運動などしたことのない色舞にはピンと来ない。はあ、と聞き流してしまう。
 そのことが伝わったらしく、和泉は少し顔を傾けた。

「私が言ったところで、実感しないことには聞き流しますよね。たとえば、最近、セックスはなさっていますか」
「え。あ、いえ、ええと、しばらくは」
「質のよいそれは、運動と同じ効果をもたらします。眠りも深くなりますし」
「質――ですか」
「あまり気が進まないだとか、乱暴だとか、そういった行為でなければです。あなたのお父さんは上手でしょう」
「はあ!?」

 突然とんでもないマウンティングを受けた。
 この金髪の美しい女と、父が、まあ親しくしていることは知っていたが――

 和泉は青い目を見開いて、驚いたような顔をしている。

「ええと――あなたのお父さんは質のよいことをしてくれるタイプだと、そういうことを言いたかったのですが」
「はあ!?」

 同じことを二度言われただけである。

 和泉は心底困ったように眉を下げた。

「悪いことを言ってしまいましたか?」
「わ、悪いというか。私に知らせないでください。そんなことは」
「すみません。それなら、こういう話はやめましょう」

 そうは言うが、どうも何かが食い違っているような気がする。
 反射的に怒ってしまったが、和泉がその手の女であるとも思えなかった。父の愛人の中には、色舞に嫉妬し、対抗しようとする女もいるが、目の前の青い瞳に、あの暗い炎は見られない。

 色舞は少し迷ってから、当たり前のことを言った。

「父のそんな話を、私が聞きたいはずがないでしょう」

 和泉はそこで初めて、なるほどという顔をした。

「あなたは私よりもずっとお若いのですね。失念していました」
「年齢の話ではないでしょう」
「まさしく年齢の話ですよ。倫理や規範は時代によって変わります。私たち年寄りは、お若い方から見ると奔放でしょう。あなたのお父さんは進歩的なかただったから、価値観があなたに近いのかもしれない」

 和泉の長い指がタブレットの画面をなぞる。爪は短く切られて、色も塗られていない。だが妙に性的だと色舞は思った。この指が、父に触れることを考える。

「嫌だわ」

 つぶやいた声を、和泉は誤解したようだ。

「自分でも頭の古さが嫌になります。古くなっていると気付いたときは、改めようと努めているのですが。気付かないときは教えてください」
「あの、参考までに。先生は、最近、なさったんですか」

 自分でも、無意味に意地悪なことを言っていると思う。
 和泉は不思議そうな顔をした。性善説の持ち主に違いない。女神のような外見に生まれつくと、内面もそうなるものらしい。
 色舞はさらに背を丸める。自分が貧相なのは、胸ばかりではない。

「色舞さん、大丈夫ですか」
「ええ、ごめんなさい。――途方もないことを考えているだけ」
「あまり考えすぎないで。つらいことがあれば、周りを頼ってみてもいいと思いますよ。あなたのことを愛して、心配なさる方はたくさんいるのですから」
「そうかしら」

 万羽にぶつけられた、いくつかの言葉を思い出す。

「私のような貧相な女、本当に誰かに愛されているのかしら?」
「愛を疑うことは、あなたを愛する方の否定です。あなたのお父さんもお兄さんも、傷つきますよ」
「血が繋がっているから、私を愛しているような気がするだけなのでは? 私でなくてもいいのかもしれない」
「そうでないことは、あなたが一番わかっているでしょう。少なくともあなたのお父さんは、愛したいものしか愛しませんよ」

 和泉は膝の上にタブレットを伏せた。穏やかに色舞を見る。

「父親だからといって、無条件に子を愛するわけではありません。愛を反証で語るのも違うのですが。私の父のことはご存じでしょう」
「ごめんなさい」

 自信のなさを、和泉に当たり散らしているだけだ。
 色舞の話を聞き、慰めてくれた伯母はいなくなってしまった。父や兄は、色舞に優しいが、多くを理解してはくれない。

 胸が苦しい。悲しいのかもしれない。

 本当の愛がどうのこうのと言っている自分自身、誰かを愛したことがあるのだろうか。父や兄のことも、血が繋がっているから、愛しているような気がするだけなのではないか?

 色舞は愛を万能だと思っているわけではないが、百能くらいではあろうと思っている。おそらく父の影響だ。和泉の言う通り、愛していないものには冷酷な男であったから。
 自分は愛を対偶でしか語ることができない。才能がないのだろうと思っている。詩人の才能か、愛の才能かはわからないが。

 和泉は「すみません」と言って、うつむくようにした。

「私たちはあなたを傷つけるだけかもしれません。あなたのグリーフは正常なものです。私たちは、あなたの悲しみに寄り添うこともできない。倫理観も違えば、死生観も違うのでしょう」
「グリーフ?」
「死別にともなう悲嘆反応のことです。本来、と規定するのもおかしいのですが、あなたや万羽さんのリアクションのほうが一般的でしょう。私たちの冷淡さが、あなたに不信感を抱かせているのではありませんか」
「そんな立派なことは考えていません」

 自分の卑小さに疲れるだけだ。つまらないことにささくれ立つ。

「私も――あなたのように魅力的であればと、そんなことを考えていただけです」
「何のために?」
「わかりません。自信を持てたらいいのにと」
「何かを得て満たすのは、イタチごっこですよ。向上心を否定するわけではありませんが、サイクルとして見ると健全ではありません」
「そうかしら。私にその大きさの胸があったら、鏡の前やお風呂で、毎日うれしい気持ちになると思います。先生だって、そういう気持ちがないと言えるのかしら」
「別に、うれしいと思ったことはありませんが」

 なるほど、寄り添ってはくれないわと諦めて、色舞は小さなため息を吐いた。


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