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蝶のように舞えない 5話


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 自分たちが、保護区域で飼育されている朱鷺ならば。

 部屋に放していた青い小鳥を、カゴに仕舞いながら、沙羅は考える。

 朱鷺が共食いを始めれば、上位の存在が制止する。
 ねずみやハトが同じことをしようとも、誰も構いはしないだろうが、こと、絶滅を危惧されている、美しい鳥ならば。

 天から大きな手が伸びてきて、自分の首根っこをつかむ様子を想像し、気分が悪くなる。その手は共食いを止め、そして繁殖をさせようとするだろう。

 必要なことだとは思う。だが、グロテスクであるとも感じてしまう。

 金属でできたカゴの天井を撫でながら、さらに考える。自分の仕事は、生態系の操作によく似ている。いや、もはや、そのものなのかと。
 少子高齢化という題目を、身近でも社会でも聞くようになって久しい。もちろん理解はできる。だが、それはディストピアの用語ではないかという思いもある。
 言葉が指すのは単なる事実傾向だが、それは常に、対策が必要だという意図で語られる。

 自然に任せる、というフレーズについても考える。
 これはそれこそ、妊娠や出産について語るとき、よく用いられる言葉だ。あるいは、その逆。末期の病を語るとき。

 そして、自然に任せた結果が少子高齢である。
 その対策如何についての個人的な見解はともかく、生物として望ましい事態でないとは思う。あの女のように、無政府共産主義が正しいと思っているわけでもない。大きな手に動かされることでしか、窮地を脱せないこともあろう。

 その手の主が、独裁者と呼ばれる可能性も考える。現代においては、間違っていると判断された場合、そう呼ばれるということも。

 歴史が正しきを示すのならば、現在においての正解は、いったい何年後の未来でわかるのだろうか。

「ピーちゃん」

 小鳥はピィと返事をした。
 覚えてしまった以上は、そう呼ぶしかない。こうなるならば、もっと素敵な名前をつけたかったと思うが、その考えも微小なグロテスクさを持つような気がする。微グロだ。

「ピーちゃん、私の小鳥。美しい声で歌っておくれ」

 詩的に頼んでみたが、無視された。

「なんだ、つまらん鳥め。私の機嫌を取らんと、知らんぞ。焼き鳥だぞ」

 中グロなことを言ってみた。

 そのとき、軽いノックの音が聞こえた。この屋敷の中では、ふすまは引き手のところか、そばの柱をノックすることになっている。沙羅が若い頃はそんなことをしなかったから、平成の頃に決まったルールだろう。

「どうぞ」
「失礼します」

 静かにふすまを開いて、金髪の女が入ってきた。
 薄暗い和室でも、この女がいると一気に華やかになるなと思いながら、「どうも」と頭を下げた。

「お疲れ様です、先生。ああ、座布団がないのですが、すみません」
「構いませんよ」

 正座に移る姿勢がなめらかで美しい。どう見ても白人の女だが、畳が似合う。
 飾り気はないのに、手首に巻いた腕時計がきらりと光り、優雅だった。上品な金色のバングルウォッチ。高価なものに違いない。

「私があなたくらい美しかったら、ヨーロッパの王族のように着飾ると思いますが」
「はあ」
「謙遜なさらないあたりが今流ですね」
「関西風に貶されたのかと思いました。服装が質素だという意味かと」
「あなたを貶すのなら、外見以外のところからひねり出します。どうでしょう、様子は」

 ひと呼吸あった。

「どうと言いますと」
「……長老の具合ですとか」

 和泉はわずかに首をかしげた。ヨーロッパの王族のような顔に、控えめな微笑み。

 この女医は、今となっては数少ない、長老派の重鎮だ。沙羅に胸襟を開いてはいない。
 だからこそ食い込まなければならないと、ため息を飲み込んで背筋を伸ばした。

「今日はわざわざお呼び立てして、すみません」
「いいえ。仕事ですから」

 和泉には月20万だかの手当てが出ていたはずだ。中途半端な額だと思ったことを覚えている。和泉を医師と見なすならば安すぎ、免許を取っていない気休めの診断係と見なすならば、今度は高すぎはしないか。
 医大に通った分の学費も、いったいどこから出したのかと、誰かがささやいていた。和泉ならばパトロンの十人もいるだろうと、そう言うほうがよほど下衆であろうから、黙っていたが。

 いや。雑念を払う。

 告白した。

「妊娠したんです」

 下腹を撫でるポーズ。

 和泉は優しい表情を浮かべた。

「大丈夫。沙羅さんはまだ気にするほどではありませんよ」
「何がですか?」

 低い声が出てしまった。

「私の腹は妊婦というほどは出ていないと、そう慰めてくださっているんですか?」
「いえ、それほどお子さんを焦るお年でもないと」
「そうかなあ! そういう感じだったかなあ!」

 つい怒ってしまったが、我に返る。
 つかみのギャグを嫌味で交わされてしまった。

「……本当に私が女を妊娠させたかもしれないでしょう」
「そうだとしたら、私の耳に入ってくるのが早すぎます。話の回る順序が違うでしょう」
「ふん」

 高学歴だと推理もお得意なのですねと言いかけて、そうではない、とこらえる。
 鳥かごを示した。

「鳥を飼い始めたんです。いいでしょう」
「ええ、かわいらしいですね」
「先生に差し上げます」
「結構です」

 ふーっと息を吐く。

「いろいろ考えまして、あなたと親しくしようとしているんですが」
「それはなんとなく伝わってきますが、打算しかないこともよく伝わってきます。あなたは政治に不向きですね」
「此紀のときはうまく行っていたんですが」
「あの方は誰とでもうまくやれましたから。鳥は、わざわざこのために買ったんですか? かごまで」
「いえ、青い生き物がいたら素敵かと思ったので。あげません。苦し紛れで口走ってしまっただけです」

 和泉は「そうですか」と頷いて、「それならサバなどもいいですね」と言った。

「サバ? 魚のですか?」
「ええ。青いですから」
「青魚ということですか? あれは銀の魚が、油で青く見えるだけでしょう」
「青く見えたら、それは青でしょう。青菜と違って、正真正銘、ブルーから来ている青なわけですし」

 何を言っているのだろうか。

「冗談です」
「はあ」

 自分たちは冗談のセンスが噛み合わない。

 和泉が小さく咳払いをした。

「……結局、私に用事はないということでしょうか?」
「いえ、あの、要するに、先ほどもうかがいましたように」

 あの長老があとどれほどもつのか、それを知りたい。
 そして、5年以上の見込みならば、どうにか弱らせてほしい。

 後半は無理だが、前半を柔らかく切り出さなければならない。親しく談笑などすれば、そのうちぽろりと漏らさないものかと思ったが、この様子では無理だろう。

 にっこりと微笑んでみた。

「お菓子でもいかがですか? 蘭香の焼いたものですから、美味くはありませんが、毒は入っておりません」
「ええ、ありがとうございます」

 茶を淹れさせなければならないと、沙羅は畳に伏せていたスマートフォンを手に取る。




 かごの中のリンゴは、小ぶりだが真っ赤に熟していて、とても甘そうに見える。

「そうでもありませんのよ」

 蘭香は銀の器に白い粉をふるっている。

「紅玉という品種で、そのまま食べると酸っぱいんです」
「悪い品種なの?」
「違います。酸っぱいリンゴが好きというかたもいるでしょうし、お菓子作りに向くんです。甘く煮て冷やしてあります」

 最初から甘いリンゴを買えばいいのではないかと思ったが、そういう話ではないのだろう。自分には製菓のことなどわからない。
 わからないことは黙っているに限る。特に、女が相手のときは。

 ポケットからポキポキという電子音が聞こえてきた。スマートフォンを取り出す。

「お茶って淹れてもらっていい?」
「緑茶ですか? おいくつ?」
「たぶん、緑茶をふたつかな。あ、いや、自分で淹れるわ。湯だけ欲しい」

 はいはいと言って、蘭香は電気ケトルに水道水を汲んだ。

 自分ならばペットボトルの水を使うが、それも黙っている。頼んでおいて文句をつけるのは紳士的ではない。ミネラルだか何かの関係で、水道水のほうが美味い茶になるだとか、そういうこともあるのかもしれない。

 蘭香は何やらうす黄色いものを細かく刻みはじめた。

「何それ? 脂肪?」
「言い方。脂肪といえば脂肪ですが。バターです」
「パンに塗るやつか」
「間違ってはいなくてもモヤモヤする言い方をなさいますわね。無限の使い道がありますわよ。これはパイ生地に折り込みます」

 刻んだものを皿に移し、今度は餅のようなものを捏ねはじめた。
 何もかもわからないが、手際はいいように見える。散らした粉なども綺麗に拭いているし、動作もこなれていてスマートだ。

「料理の上手い女に見えるな」
「どうせわたくしの作るものはいまいちです」
「え? 自覚あったんだ」

 蘭香は涼しい顔で、長い棒を使って餅を伸ばしている。

「わたくし、味を重視していないんです。工程と、仕上がりの美しさを楽しみたいだけ。粘土細工の上位互換ですわね」
「その意識で作ってるもんを、周りに振る舞ってるのがすごいな」
「お願いですから食べてくださいなんて言っておりませんもの。よかったらどうぞとお分けしているだけです」
「女にそう言われると、もらわねえと悪いかなって気になるんだが」
「それはわたくしの知ったことではございません。今日はアップルパイですが、持って行かれます? 2時間くらいで焼き上がりますけれど」
「いや、断っていいんなら要らねえ。なんか、この前もリンゴの何ちゃらを作ってなかったか?」
「あれは焦がしてしまったので、今度こそ写真映りのいいものを作っているんです。お騒がせしたお詫びに持って行こうかしら」
「食わなきゃいけねえ粘土細工を詫びの手土産にするなよ」

 話している間に、湯が沸いた。
 共用の茶筒から葉を出し、共用の急須に目分量を入れる。熱湯も目分量で注いだ。
 蘭香が伸ばした餅をたたみながら、ちらりと急須を見た。

「熱湯で緑茶を淹れると苦くなりますでしょう。水を足したらよろしいのに」
「そうなの? 今から足しても手遅れ?」
「もう葉が開いてしまったでしょうから、手遅れでしょう。克己様は苦いお茶に文句をおっしゃらないのですか?」
「克己様は言わねえが、今回の発注者は沙羅さんだから言うかもなあ。淹れ直すか」
「それがよろしいでしょうね」

 皿に乗せた餅を冷蔵庫にしまって、蘭香はうっすらと意地悪げに笑った。

「苦いお茶は毒を入れるのにうってつけですもの。神経質な方なら、お気になさるかも」
「別に、そんなこたあ考えねえだろうけど」
「信頼関係がおありですのね」
「普通だろ。なんか言いたげだな」
「典雅様にアップルパイをお持ちしたいところですけれど、お嬢様が嫌がるでしょうから、やめておきます。あの方、毒に敏感でいらっしゃるから」
「入ってんの? 毒」

 蘭香は大きな目で東雲を見た。
 可憐さで祖父に負けているというのが、不憫な娘だと思う。顔立ちは可愛らしいのだが、目つきが険しいのだろうか。そういえば、目が悪いのだと言っていた気もする。

「わたくし、毒なんて入れませんけれど――」

 西帝は、色舞の声を落ち着いていると言っていた。
 蘭香の声は甘酸っぱい。いかにも、果物で菓子を作りそうな、それもあまり達者ではなさそうな、若い女の高い声だ。

「もし毒を盛るのなら、リンゴを使ったお菓子にしますわ。トラディショナルでおしゃれでしょう」
「毒に伝統とかおしゃれとかあんの?」
「白雪姫のお妃の毒の盛り方は、凝っていて素敵でしょう。わざわざ自慢の美貌を隠して、おいしそうなリンゴを選んだのでしょうね。赤くて甘そうなリンゴを。自分の美しい娘が、これならと口に入れるものを探して」
「継母だろ。あと、リンゴなんて下々の者に用意させたんじゃねえの?」
「初版では実母です。それに――すでに猟師に裏切られた王妃は、同じ過ちを繰り返さないために、みずから出向くようになったのでしょう。リンゴは自分で用意し、もしかすると、森でもいだのかもしれませんわね。そうありたいという毒殺の形です。盛られる側も、美貌を妬まれ、自分の母に、もぎたてのおいしそうなリンゴに仕込まれるのなら、諦めがつくというものではありませんか」
「そうか? 母親が女丸出しで殺しに来るのって、むしろ、かなり嫌だろ。良い毒殺ってのもわからんが」

 ふふっと蘭香は笑った。男を見下すときの女の顔だなと思う。小馬鹿にしているが、同時に優しい。

「赤や青のものには注意なさったほうがよろしいですわ。わたくしが毒を盛るのなら、どちらかにいたします。男のかたにはわからないのかしら」
「ぜんぜんわからん。絵本とかに出てくるような毒は、紫っぽいイメージはあるが」
「海外では、そのイメージは緑色だそうです。理由は、なんでしたかしら。使ってきた毒や文化の違いでしょうね」
「毒に詳しいな」

 蘭香は再び水道水をケトルに汲んで、スイッチを入れた。
 白く細い指先。毒薬など触れば、そこから侵されてしまいそうな。

「わたくしの祖父が、毒でも盛られたら好都合だと、そう思っておいでの方がいらっしゃるようですから」

 小さな食器棚から湯飲みをふたつ出してくれた。やはり共用の、どうということもない白磁の茶碗だ。

「諸刃の剣という言葉があるように、毒にもそういった、両作用のことわざがあるのでしょうね。わたくしは存じませんけれど」
「毒をもって毒を制すとか? あと、薬も過ぎれば毒になるとか言うよな」
「そういったことではなく。王妃は、二度とリンゴを食べられないと思いませんか? 自分が毒を盛った果物。まして、人に裏切られた過去があるのですから」
「人に毒を盛ったら、自分も盛られてると思うようになるって話か」

 蘭香は「そうですね」と甘い声で言った。

「薬は毒ほど効かぬ、ということわざもあります」
「それはたぶん、悪貨は良貨を駆逐するみてえな意味じゃねえの?」
「その言葉は、原義と少し離れた意味合いで使われているのですが。悪事千里を走る、のほうが近いかもしれませんわね。負のエネルギーに正のエネルギーは追いつかない。毒は口に入れてしまった時点で諦めるべき。薬で解けるとは思わないほうがよろしいですわ」

 少し考えてから尋ねた。

「それはなんか、政治的な暗喩のあるアドバイス?」
「いいえ。直接的な話です。プロボクサーも大統領も、毒を飲んだら助かりません」
「効かなかった有名なやついたろ。法王みたいな」
「たぶんラスプーチンの話だと思いますが、まったく法王ではありません。大雑把なのに何を言わんとするのかはわかる、その解像度、本当にモヤモヤしますわ」
「毒を飲まないように気をつけろって話?」
「それと、毒を盛るときも気をつけてという話です。お妃はきっとリンゴが好物だったのでしょう。少なくとも、嫌いではなかったはずだわ」

 蘭香は何かを言おうとしている。

 しかし、湯が沸いたので、そこで会話は終わった。



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