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蝶のように舞えない 2話


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 今日も女のうめき声が聞こえる。

 ああ嫌だと、蘭香はかぶりを振りたいような気分になる。

 この部屋は、薄暗く、ほこりっぽい上に、次期長老の部屋に隣接している。
 かつて壁一面に並んでいた本棚は、死期を悟った部屋の主によって、その中身ごと処分されていた。整理する物品が少ないのは助かるが、がらんとしているために付近の空気がよく響いてくるらしい。

「ラッキー、高そうなチョコだ。まだ食えるかな」

 たんすの中身を改めていた祖父が、耽美な顔に似合わぬことをつぶやいている。このところめっきり耳が遠くなったから、何も気付いていないのだろう。
 畳を拭いていた雑巾を、のんきな背中に投げつける。

 ゆっくりと振り向いた祖父は、ゆっくりと雑巾をつまみ上げ、ゆっくりと険しい表情を浮かべた。

「お前、この俺に雑巾をぶつけたのか? まさかな。事故だろう」
「ぶつけましたわよ。このところ目がかすむので、よく狙いました」
「なんということを。長老だぞ。敬え」

 過剰に深刻な顔をする祖父を無視して、鏡台のほこりを指でぬぐう。置かれていた化粧品は、すでに箱に詰められ、ゴミ出し用のワゴン車に積まれている。

 小さな引き出しを開くと、マニキュアの瓶が並んでいた。

「あら、いやだ。お嬢様が気付かなかったのね。こんなにたくさん」

 赤に近い色ばかり、ざっと20本ほどもある。蘭香のドレッサーも似たようなものだ。ピンク色の瓶ばかり、やはりこのくらいは並べている。
 どれどれと覗きに来た祖父が、案の定「ぜんぶ同じ色だな」と解像度の低い感想を述べた。

「女というのはどうしてこう、顔だの爪だのにつけるもんを山ほど買うんだ。たいして変わりもせんのに」
「ジジイ、有罪」

 判決を下して、引き出しを元に戻した。この鏡台は処分せず、蔵に入れておくことになっている。マニキュアのことは色舞に伝えればいいだろう。
 それから、祖父が抱えているチョコレートの平たい箱をもぎ取ってゴミ袋に入れる。

「ああっ、賞味期限を見ていないのに」
「敬われたいのなら、拾い食いをなさらないでください。それより、今日はこんなところでよろしいでしょう。もう参りましょうよ」
「今週のうちには片付けたいから、掃除機もかけたいのだが」
「わたくしとお嬢様で済ませておきますわ。もう金目のものも見当たりませんし、用はないでしょう」
「山賊の価値観だな」

 しぶる祖父の腕を右手で引っ張り、左手にゴミ袋を持って、強引に部屋を出る。雑巾などはあとで回収すればいい。
 急いで廊下を歩いた。

「おじいさま、あのお部屋にはなるべく近寄らないほうがよろしいわ」
「そんなことを言ったって、死者にもプライバシーとかあるだろう。俺たちが責任を持って片してやらんと」
「幽霊っぽいものが見えましたわよ」
「マジで? 怖すぎる」

 師が聞けば怒るだろうかと、祖父の腕を振り払いながら考える。
 幽霊であっても会いたいと言うだろう。普段は恬淡とした師の、あの悲しげな顔が、蘭香には少し苛立たしい。

 ――誰でも死ぬのだから。

 ゴミ袋を祖父に手渡しながら考える。

 ――おじいさまだって。

 透明感のある容姿で誤魔化されているが、祖父は少し呆けてきたような気がする。
 次位の権力者は、そのことを承知しているように見えた。祖父が控えめでいるのをいいことに、さまざまな横暴を通している。

 祖父の部屋に到着したので、ゴミ袋ごと押し込むように帰した。

 さっさとふすまを閉めて、自分の部屋へと向かう。
 9月ともなれば床板はひんやりとしている。靴下越しに伝わってくるその感触が、今はひどく不快だった。

「あらあ」

 鈴を振るような甘い声。

 幽霊よりも恐ろしいものが、曲がり角の先にいた。

「蘭香じゃない。今日もかわいいわね、小さくて」

 不可思議なことを言いながら、万羽は肩をすくめて微笑んだ。

 シンプルな黒いワンピースを着ているが、抜群のスタイルと顔立ちが引き立てられ、見惚れるほどに華やかだ。
 大きな黒い瞳は、潤んできらきらと輝く。まつ毛をうまく上げているから、光がよく入るのだと、そんなことをぼんやりと考えた。

 足を止めた蘭香に、万羽は「どうしたの」と、祖父にも負けない透明感のある声で言った。

「幽霊でも見たみたいな顔よ。見たの?」

 アイスクリームのような、冷気のある甘い香りがする。上位捕食者の放つ、獲物を誘い出すためのフェロモン。
 服が白ければ雪女だと、氷細工のような顔を見つめながら思う。目をそらすことができない。

「刹那は部屋にいるの?」
「いいえ。留守でした」

 アーモンド形の目が、三日月に変わる。長毛種の猫のような表情。

「どうして嘘つくの? あたしが何かした? 別に、刹那に悪いことしようなんて思ってないわよ。どうして嘘ついたの?」
「嘘なんて――」
「わかってるの? 誰にものを言ってるか。あたしが聞いたことに、どうしてきちんと答えないの」

 いま、祖父に出てきてほしいと願う。嘘はもう知れているのだから、後ろから颯爽と現れて、困っている孫娘を助けてほしい。

「あたしが――」

 ゆらりと流れるように歩いて、目の前まで近付いてきた。
 鼻先が触れるほど、顔を寄せてくる。それほど間近で見ても、この女は美しい。黒い黒い瞳。蘭香の顔まで映るような。

「あたしが病気なんていうのは、豪礼が勝手に決めたことよ。うそなの。だから、あんたがあたしを見下していいなんてことはないのよ」
「承知しております」
「本当?」

 近すぎる距離を、一歩下がって開いて、万羽は自分の腰に手をやった。子を叱る親のようなポーズ。
 その爪が、淡いオレンジ色に塗られていることに気付く。
 かつて朗らかであった万羽の、心の残滓のように思われて、蘭香は切なくなる。それがおそらくは、見下しているということなのだろうが。

 誰でも年を取り、老いて、死んでいく。
 早くに父を亡くした蘭香は、年長者の死に対してややドライな感覚を持っている。祖父に訪れつつあることも、そう悲壮には感じない。
 しかし万羽のそれは、周りの者を滅入らせる。これは蘭香ばかりの感想ではないらしく、祖父や色舞も同じようなことを言っていた。

「どうしてあたしを足止めするの?」

 純度の高い因縁をつけられて、いよいよ何も言えなくなってしまう。
 万羽は髪をかき上げた。以前よりも短くなったが、さらさらと流れる綺麗な髪だ。

「あたし、買い物に行きたいのよ。新しい靴を見たいの。車の鍵をちょうだい」
「それは――」

 万羽をひとりで門の外に出すことはできない。沙羅が付き添う決まりになっている。
 おそらく万羽は、先に沙羅の部屋に行ったのだろう。そして当然、不在であった。そのために、より権力を有する祖父のところへ行こうとしているのだ。

 原則としては沙羅を探している。

 そのことがわかってしまった以上、今度は本当に、足止めをする必要が生まれてしまった。

「万羽様、お菓子を召し上がりませんか? 私が焼きました。おいしいですよ」
「チョコ?」
「クッキーです。飴を砕いて入れてあります」
「ふうん。おいしそう」

 万羽の表情がぼんやりと和らぐ。
 この細身に見える女に、腕力で勝る者は、次期長老をおいて他にない。注射器を見ると暴れる以上は、茶や菓子に混ぜて投薬するよりなかった。

 本当はクッキーなど焼いてはいない。先ほどのチョコレートを、やはり持ってくるべきだったと考えて、蘭香はそっと息を吐いた。




 今年の干支にちなんで、ねずみだろうか。

 トレーナーにプリントされている不思議な絵を、ついちらちらと見てしまう。丸みのあるうさぎのようでもあるし、重なったまんじゅうにも見える。

 この男はいつでも妙な服を着ている。ある種の反骨精神かもしれないが、単に趣味なのかもしれない。
 どうあれファッションの話をするほど打ち解けてはいないと、和泉はタブレットに視線を戻した。画面に触れて、電子カルテを表示する。

「――できれば、西帝さん自身に来ていただきたいのですが」
「来たがらないんですよ。ただ痛いから、薬をもらってきてくれと言うんで」
「痛いというと、どのあたりが、どのくらい?」
「さあ。夜になると頭が痛むとしか」

 容姿はまったく異なる兄弟だが、話し方はよく似ている。用件だけを言い、愛想というものがない。
 あるいは医者が嫌いなのかもしれない。西帝のほうは間違いなくそうだろう。視力が回復することはないと知ってからは、彼がこの診察室に来たことはない。

 診察室というのも、便宜上の呼び名に過ぎないが。形ばかり、小さな事務机と丸椅子を置いているだけの、普段は和泉が寝起きしている私室である。
 どちらかといえば、床下収納がこの部屋の主要部であろう。薬品類はそこに置き、施錠を和泉が管理している。

「西帝さんには、すでに頓服の鎮痛薬を出しています。それよりも強い薬は、あまりお勧めできません」
「身体に悪い?」
「たとえば意識が朦朧とすると、晴眼者でも足元がおぼつかなくなります。それで、また――怪我でもなさっては」

 なるほどと言って、西帝の兄は腕を組んだ。

「じゃ、我慢させるしかないですか」
「もしくは、薬の効いている間は、どなたかが付き添っていてさしあげるとか」
「俺しかいませんね。俺が外に出てる間は駄目ってことか」
「あまりに痛みが酷いようでしたら、この部屋で服薬して過ごしていただいて構いませんが、西帝さんはお嫌でしょう」
「すみません。あなたがどうとかじゃなくて、あいつは女性が苦手なんですよ。目が悪くなってからは特に」

 西帝の視力の障害は、女を庇った怪我が元になっている。
 そのことを思い起こしていると、西帝の兄は「いえ」と心を読んだように否定した。

「女って優しいでしょう。みんなあいつに気を使ってくれるから、それがしんどいみたいです」

 女性観がざっくりしている。だが、そういった傾向があるのも事実だろう。
 西帝は特に、線の細い美少年だ。彼がふらついていれば手を貸してしまう女はいるだろう。容姿が魅力的だからではない。痛々しげであるためだ。
 実際のところ、西帝はさして生活に苦労しているようでもない。彼は外見よりもタフで大雑把だ。だから、あまり世話を焼かれるのもわずらわしいのだろう。

「一度、ここへいらっしゃるようにお伝えください。今日はどちらに?」
「街のスポーツジムに行ってます」
「え、どのように?」
「誰だか、同じジムに通ってる方がいるので、車に乗せてもらってるそうです」

 初耳であるが、運動はよいことだ。同行者がいるというのも理想的である。

 西帝は結局、放っておいても問題のないタイプと言えよう。
 メンタルの方面の医者ならば、西帝よりもむしろ、ここに座っている兄のほうを気にかけるだろう。

 いわゆる大男だ。そのうえ顔の彫りが深く、美男子ではあるが、表情が暗く不機嫌そうに見える。
 この男は、周りからの介助を得にくいタイプと言える。まず、弱っているようには見えない。そして威圧感がある。男も女も、この男には近寄りがたいと感じるだろう。

 実際、介助が欲しいと思ってはいないのだろうが、精神の健全性と、自覚的な意志とは、連動するわけではない。痛みを感じなくとも、傷が膿んでいることはある。

 少なくとも和泉の所見においては、この男に何らかの対処が必要だと感じる。

 そこまでは踏み込むもんやないわと、此紀は言っていたが。

「お兄さんは、そこへは行かれないんですか」
「俺が? ジムにですか。行きませんね」

 低く響く、渋い声であるが、そのせいで怒っているように聞こえる。
 弟とは似ていないが、父親にはそっくりだ。姿かたちも、この声も。
 髭を生やして髪を伸ばし、服を着替えれば、見分けがつかないかもしれない。そう考えると、意思の及ぶすべての要素を、父親と遠ざけているとも解釈できるが。

 また、服に描かれた絵を見る。謎の動物。いや、動物かどうかも怪しい物体。

「行ったほうがいいんですか」
「はい?」
「俺が。付き添いに」
「ああ、いいえ。西帝さんなら、その車に乗せてくださる方がいれば充分でしょう。運動はストレス解消にとてもいいので、お兄さんもいかがかと」
「別にストレスはないですよ」

 そんなわけあれへんがな、という幻聴が聞こえた。
 しかし、深追いしたらあかんわ、とも続いた。

「わかりました。では、西帝さんによろしくお伝えください」
「どうも」

 軽く頭を下げて、西帝の兄は立ち上がった。

「あ、すみません、サインをいただけますか。患者について、お話をうかがった記録を残さなければいけないので」

 タブレットとペンシルを手渡す。
 男は無表情にうなずいて、狭野という、字面の凡庸さに似合わぬ大仰な名を書いた。


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