「あいさつをしよう」というルールは組織に必要なのか?
先日某ソシャゲをやっていて、
所謂、
ギルド的なモノに勧誘されたので入ってみた。
そこは緩い感じで特に細かいルールはない、
という触れ込みだったのだけど
ひとつだけルールがあるらしかった。
それは
誰かがログインしたら挨拶しよう!
というやつだ。
正直、
めんどくせーと思った。
入ったばかりだけど、ちょっと抜けようかなと思うくらいには……。
もちろん、いくら社会不適合者寄りな自分でも
挨拶くらいはするし、
挨拶そのものは嫌いじゃない。
むしろ好きだ。
そして挨拶は円滑なコミュニケーションには必要だというのも分かる。
ただ、
ルール化、明文化されるのが嫌なのだ。
単純にソシャゲだし…
暇な時に適当に入って適当に落ちたい
というのも凄く感じるけど
それだけじゃなく、自分には何か、
「挨拶をしよう」アレルギーの様なモノがあって
小一時間、ゾワッとしてしまった。
今回考えたきっかけはソシャゲだが
僕は仕事の場でも「挨拶をしよう」というルールを標榜している場所は嫌かもしれない。
経験上、挨拶をしようみたいなことを
わざわざ言ったり、掲げてる組織は碌なもんじゃない。
というか、
「挨拶をしよう」が組織のルールとして許されるのは中学生までだよねー、と思ってる。
挨拶というのは、
犬が出会い頭にお互いの匂いを嗅ぎ合うような、
本能的な…自然なものだと僕は思うし
小学生でも出来る物凄く簡単なことだ。
勿論、様々な事情で出来ない・しない人もいるだろうし、
顔を合わせたくないくらい嫌いな相手に
挨拶をすることは難しかったりもするけど
そういうケースは除いて、
基本、誰でも出来ることだ。
なのに、何故わざわざルール化するのか?
理由はいくつかあると思うので列挙するが
①は、
そもそも挨拶すらできないレベルの人間しか集まらない組織だから(例:ブラック企業・小学校)
②は
挨拶といっても、
後輩への声のトーンや大きさなどの指摘で
仕事の出来ない先輩社員にマウントを取らせ
ガス抜きさせるためではないか?
まあ、暴論かもしれないが
挨拶が出来ないだのの小言を言う人というのは
基本仕事が出来ない、と僕は思う…。
だって仕事が出来るなら後輩が挨拶するとかしないとか気にかけるより、もっと大事な仕事があるはずだもの。
まあ当然、
得意先相手に対して挨拶もろくにせず不遜な態度だった、とかであれば注意の余地はあるが
身内同士なら最低限良質なコミュニケーションがとれればどうでもいいはずだ。
挨拶するしない、などという
低次元なことを意識して仕事していたら、
小学生レベルの意識でしか仕事が出来ない…。
例えば、挨拶に元気がない、声が小さいと
指摘された新人は、素直であれば直そうと努力するはずだ。
もっと覚えなきゃいけないことがあるのに…。
結果育たず、ただ挨拶ができるだけの声のデカい無能になるか、
もともと元気じゃないキャラなのであれば
「気持ちのいい挨拶ができない」と言う先輩の主観による抽象的な謎指標で評価され、
能力の有無を見られる手前で潰され、
消えていくことになる。
あまり良いことではない。というか損失だ。
③は、一部のメンヘラへの配慮のためだろう。
組織には、
挨拶されなかった(聞こえなかった)から
私は無視された!
嫌われている!
と勝手に病み出す人が一部いる。
大抵は気付いてなかった、
忙しかった等の理由で、嫌いだからしなかったというケースは稀なはずだが
被害妄想を爆発させる人がいるのだ。
または自己愛の強いマウント上司なんかにありがちな現象として、
俺が挨拶されなくて気持ちよくない!尊敬されていない!なんて感じて
気分を勝手に損ねるケースもあるだろう。
どちらも問題は挨拶をしなかった側には無いと思う。
むしろ病む人やマウント上司の受け取り方が歪んでいることの方が問題で、
そちらに認知行動療法でも受けさせた方が生産的だ。
挨拶をされなくて気にする様な人は、
仕事に承認欲求を持ち込んでいる人だろう。
声は大きいかもしれないが
気持ちのいい・雰囲気の良い職場作り
と言う方便で
彼らに合わせてルールを作るのは
如何なモノだろうか。
結論、
「あいさつをしよう」をルール化しても
生産性は無いのではないかと思う。
むしろ、ルール化することで
仕事の出来ない人・メンヘラ上司達に
ルールに則った正義棒を与えてしまうことになり、
長い目でみれば、
結果として雰囲気は悪くなり
組織としての生産性は下がる…と思う。
以上、
むしゃくしゃして書いた、今は反省していない。最後までお読み下さり、ありがとうございます。