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#卒論公開チャレンジ

せっかく書いた卒論、ゼミの人と教授にしか見てもらえないの悲しいので公開チャレンジに乗っかって見たいと思います。

誤字がちょいちょい入ってるのですが直す前のやつなのでそこだけ暖かい目で見てくれると嬉しいです😌あとそのままテキストはっつけたので体裁悪くて読みづらいですすみません><

何言ってるのかわからないとか軸がブレすぎるとかいろんなコメントもらえたら飛び跳ねて喜びます。


題名:夫婦・家族の変容する理想像--『道草』と『消滅世界』を比較して--

目次

 はじめに
  第一章 『道草』から見る家族のかたち
      一、健三とお住の関係性
      二、健三の家族観とその背景--金と人、養子時代に培われた価値観--
      三、お住の家族観とその背景--健三に求めるもの--

  第二章 『消滅世界』から見る家族のかたち
      一、夫婦・家族の崩壊--血筋、家系の消滅--
      二、雨音の家族観とその背景--「正しさ」と異質--

  結論
      

   はじめに

 現代の家族のかたちは多様である。結婚率の低下や離婚率の増加が見られ、事実婚の普及や晩婚化による少子高齢化問題、不妊治療の急増など「家族」にまつわる様々な問題や新しい制度の普及がなされている。また、家族のかたちは男女だけではない。二〇一五年、東京都渋谷区では同性愛者同士のパートナーシップ制度が誕生するなど、LGBTへの理解や制度の浸透が行われている。このように、私たちが暮らす現代では徐々にその人自身が誰と、どんな形で「家族」を持つのか、持たないのかという選択の幅が広くなってきている。
 一方で、明治時代は現代よりも激動の時代であった。日本という国が世界という大きな舞台に登ろうとする中で、明治期以前よりから残る人々の価値観が大きく揺らごうとしていた。その一つが女性の生き方である。教育を受ける権利、仕事をする権利を求める動きが女性の活動家を中心に活発化し始めた。正に躍動の時代となったのが明治時代であった。そうした中で、明治時代の「家族」のかたちは現代よりも制度的であった。例えば、家父長制である。家を継ぐ男性が家庭内の権力をもち、女性はそれに付き従う形を国が制度として施行していたのである。当時、男女には明確な線引きがされ、それぞれに役割がはっきりと振り分けられていた。現代のように一人ひとりの生きる権利が尊重されているわけではなく、男性・女性それぞれに義務や権利の異なる役割が付与されていた。⑴
 こうした明治の「家族」のかたちや男女の役割による明確な境界線は漱石作品の中にも如実に描かれている。本論文では、『道草』から健三とお住夫婦に着目し明治時代の夫婦・家族の様子と二人の理想とした夫婦像・家族像とその背景を考察する。特に、お住に焦点を当て、女性としての生き方が変動する明治に生きた女性が家族に対して抱く価値観や夫婦に抱く理想像を考察する。
 明治時代との比較として、村田沙耶香の『消滅世界』を引用し現代では女性の生き方の変容やそれに伴う家族や夫婦という従来から存在する形がどのように変容をしたのかを解析していく。
 現代を生きる私たちの中でも「家族」に関する問題は尽きない。結婚や出産、子育てに限らず、家族の中での関係性などに関する問題は形を変え、時間が経過してもなお、変わらずに私たちの中に存在する。
 家族とは、家族のかたちとは何なのか。そして、今を生きる私たちは「家族」をどのように捉え、生きていこうとしているのか、本論文の結末では『消滅世界』の作者である村田沙耶香の考えと夏目漱石の作品を通じてまとめていく。
 明治時代から現代までの女性が抱く夫婦・家族への理想像はどう変わったのか、何を求めまた、その背景には何があるのかを本論文を展開していく中で明らかにしていきたい。

   第一章 『道草』から見る家族のかたち

 一、健三とお住の関係性
 明治時代から現代にかけて、女性が抱く理想の夫婦・家族の変容を見る前にまずは明治時代の夫婦の関係性について知る必要があるだろう。そこで、『道草』に描かれる健三とお住の関係性を一つの例として取り上げる。
 先述した通り、明治時代には国が家父長制⑵という制度を敷き、男女に明確な役割づけを行っていた。この背景には国もしくは国家の繁栄⑶がある。明治という時代をみるとアジアのみならず日本という国が世界を相手に国力を大きく主張し、各国に対し領土や資源などの権利を獲得しようとしていた時代であった。戦争もいくつか起きその為に若い兵力や優秀な人材の確保、国の財力も必要とされた。財力を生み出すための、働き手として身体が健康で出自の明らかな子供を最も欲していた時代とも考えられるのではないだろうか。その結果、子供を産むことができる女性は家系の血筋を絶やさないよう、働くのではなく子供を生むことや子育て、家事に専念することが求められた。そして、子供を産めない男性は自身の嫁や子供を飢えさせることがないよう、また、家系を守る為に働くことが求められた。
 こうした時代の施策は人々に対し、女は早くに嫁ぐこと、嫁いだ先の家系を繁栄させること、家系を引き継げる男児を産むことが良しとする価値観を植え付けた。対して、男には家族を養えるだけの財力の有無(両親の財力も含まれる)や教養、結婚の有無、そして女性同様に嫡男の存在を求めた。こうした価値観に健三お住夫婦はどのくらい当てはまっているのだろうか。
 まずは、経済的な側面から解析していく。健三は姉夫婦など親族に対し金を貸しているという記述が多分にある。ただ、財力に余裕があるから金を貸しているというわけではなく、家計の金はいつもかつかつだということがお住の次の発言からよくわかる。

  「何か変わった事でもあるのかい」
  「どうかして頂かないと……」
  細君は目下の暮し向に就いて詳しい説明を夫にして聞かせた。
  「不思議だね。それで能く今日まで遣って来られたものだね」
  「実は毎月余らないんです」
  余ろうとは健三にも思えなかった。(中略)
  「然しかつかつ位には行きそうなものだがな」
  「行っても行かなくっても、これだけの収入で遣って行くより仕方がないんですけ
   れども」(二十)

 このように、健三は金の管理をお住に任せているために家計状況を把握できていない。この会話の後、家の金をやりくりするため実はお住が自身の着物を売っていたことが発覚する。健三はその事実に二つの驚嘆をする。一つは、着物を売るほど家にお金がないこと。もう一つは、健三より比較的生まれが恵まれたお住が自分に相談もせず大事な着物を質屋に持っていったことであった。実際は、お住自らが着物を質屋に持っていたわけではなく、山野のうちの御婆さんに頼んでいたのだが”お住が着物を質屋に入れると考え、実行した”という事実に健三は驚嘆していた。
 また、健三の驚嘆は次のような感情に変わる。

  健三はその先を訊かなかった。夫が碌な着物一枚さえ拵えてやらないのに、細君が
  自分の宅から持ってきたものを質に入れて、家計の足しにしなければならないとい
  うのは、夫の恥に相違なかった。(二十一)

 お住が着物を質に入れていることを知った健三は夫としての恥、という感情を抱く。この健三が感じた”夫の恥”について、以下の二つが考えられる。一つは、お住に対して申し訳ないという恥である。今まで、健三はお住に家計の一切を任せ、都合の良い時だけ内容を分かりもしないのに口を出すという態度を取っていた。その癖、親族や友人に金を貸したり書物を購入していた。こうした今までの健三自身の態度を”夫の恥”として自覚した、という考えである。もう一つは、世間一般の夫という役割を全うしていなかったことに対する恥である。先述した通り、明治時代の男の役割は家族を養うために働くことであった。嫁いできた妻や子供が苦労しないよう男は金を稼ぐ必要があった。また、男が稼いだ金で妻や子供が裕福な暮らしをできることは、当時の男のステータスでもあった。⑷こうした世間一般の価値観がある中で、健三は「碌な着物一枚さえ拵えてやらないのに、細君が自分の宅から持ってきたものを質に入れて、家計の足しにしなければならな」かった。この点で、”夫の恥”とはお住に対する今までの態度を申し訳なく感じ恥じているのではなく、世間一般的な夫としての役割を全うできなかったことに対する”恥”と考えることができる。つまり、健三にとって理想の夫は明治時代に人々が持っていたあるべき夫像と重なる部分がある、と考えられ、さらには健三自身がその人々が持っていた理想の夫像にあまり適していなかった、と言えるだろう。
 次に、子孫、血族を残すという側面から健三とお住夫婦を見ていく。お住は健三との間に三人の子供をもうけた。その三人ともが女であり、夫婦の間に嫡男はいなかった。この事実に関して、三人目の子供を出産した後に健三と産婆は次のような会話をする。

  「御安産で御目出とう御座います」
  「男かね女かね」
  「女の御子さんで」
  産婆は少し気の毒そうに途中で句を切った。
  「又女か」
  健三にも多少失望の色が見えた。一番目が女、二番目が女、今度生まれたのも亦女、
  都合三人の娘の父になった彼は、そう同じものばかり産んでどうする気だろうと、心
  の中で暗に細君を非難した。(八十一)

 健三は真っ先に子供の性別を尋ね、産婆は気の毒そうに「女の御子さんで」と途中で句を切る。健三は産婆からの返答を受け、多少失望の色を醸し出した。この健三と産婆のやりとりからも明治という時代に男の子供が各家庭で重要であったことが伺える。
 お住は年齢が三十歳に近く、当時の子供を産める適正年齢から考えると今回の出産が実質最後の機会であった。健三は出産の壮絶さを知っていたながらも男児を産めないお住に対し、「そう同じものばかり産んでどうする気だろうと、心の中で暗に細君を非難」している。男児を産めない責任はお住だけの責任ではないはずだが、健三はその責任をお住にのみ押し付け指摘している。このことからやはり、明治時代の夫婦が男児をその間にもうけることは一つの責任でもあった、と言える。そして、男児をもうけるという責任に関して、健三お住夫婦は三人目の出産を迎えた段階で果たせはなかった、とも言えるだろう。
 また、健三とお住の関係性はお金や子供と絡み、互いに期待するものがすれ違った夫婦でもある。その様子は幾度となく『道草』の中で記述されている。以下は、お住が子供を連れ外出し帰ってきた際の健三とのやりとりから二人のすれ違いを示したものである。

  「只今」
   遅くなりましたとも何とも云わない彼女の無愛嬌が、彼には気に入らなかった。彼
  は一寸振り向いただけで口を利かなかった。するとそれが又細君の心に暗い影を投げ
  る媒介となった。細君もそのまま立って茶の間の方へ行ってしまった。
   話をする機会はそれギリ二人の間に絶えた。彼等は顔さえみれば自然何か云いたく
  なるような仲の好い夫婦でもなかった。又それだけの親しみを現わすには、御互が御
  互に取ってあまりに陳腐過ぎた。(十八 傍線引用者 以下同様)

 二人のすれ違いは言葉の少なさにある。その理由は、健三はお住に対し「只今」という挨拶以上の言葉を求め、お住は健三に自分を迎い入れる言葉を求めていたことが傍線箇所に記されていることから分かる。こうしたお互いがお互いに求める言葉や気遣いの少なさが健三とお住のすれ違いを招いている一つの要因である。
 健三とお住は恋愛結婚ではなかった。お見合いにより夫婦となった二人の間を漱石は「顔さえみれば自然何か云いたくなるような仲の好い夫婦でもなかった」と記す。つまり、お互いの性格や容姿に惹かれ合い二人で家庭を築いていこう、という心持ちではなかった。そうした交流さえもほぼなく決まった結婚であったため性格によるすれ違いが起きても自然なことである。ここで注目したいのは、二人の関係性の発生には恋や愛などの感情がなかったが、夫婦となり子供を産み育て数年の時を経た二人の間に愛情はあったのだろうかという点である。
 健三とお住、二人の間にあった愛とはどのような形をしていたのだろうか。また、それぞれが相手に望む夫婦の形、家族の形はどこにありその背景にはどのような家庭環境があったのだろうか。

 二、健三の家族観とその背景ーー金と人、養子時代に培われた価値観ーー
 健三はお住との間にどのような関係を望んでいたのだろうか。健三はお住に対し様々な感情を持つ。そのほとんどがお住を否定するようなものばかりである。言い争いの度に健三はお住の論理性の無さや教育を受けていないことなどを非難する。お住はそれに傷つき、また時にはヤケになり言い返す。物語中の二人の関係性はこの繰り返しである。しかし、次のように喧嘩は長引くことなく済むことが多い。

   こういう不愉快な場面の後には大抵仲裁者としての自然が二人の間に這入って来
  た。二人は何時となく普通夫婦の利くような口を利き出した。(五十五)

 ここで使用される「自然」とは時間のことであると考える。不愉快な場面、つまり喧嘩をしても大抵の場合は自然という時間が仲裁役となる。しかし、その自然が作用しない時もある。二人の関係が極端な緊張の度合いに達すると健三はお住に向けて、生家へ帰れと言い、お住はそれに対しこちらの勝手だという態度をとる。健三はこうしたお住の態度を憎らしく思い、何度も言うとある日お住は子供を連れて家を出て行ってしまう。

  「じゃ当分子供を伴れて宅へ行っていましょう」
   細君はこう云って一旦里へ帰った事もあった。健三は彼等の食料を毎月送って遣る
  という条件の下に、また昔のような書生生活に立ち帰れた自分を喜んだ。彼は比較的
  広い屋敷に下女とたった二人ぎりになったこの突然の変化を見て、少しも淋しいとは
  思わなかった。(五十五)

 お住が子供を連れて家を出ると健三は一人の空間を満喫する。健三の中にお住に対する申し訳無さや謝罪はなく、1ヶ月の間お住や子供がいない環境に大変喜び過ごした。ここだけを切り取ると健三はお住や子供に対し邪魔という感情ばかりで愛情など無いのではないかと疑う。しかし、奇妙なのはその後、お住が健三の元を尋ねた時のやりとりである。
  
  「貴夫故のようになって下さらなくって」
   健三は細君の穿いている下駄の表が変にささくれて、その後の方が如何にも見苦し
  く擦り減らされているのに気が付いた。彼は憐れになった。紙入の中から三枚の一円
  紙幣を出して細君の手に握らせた。
  「見っともないからこれで下駄でも買ったら好いだろう」
   細君が帰ってから幾日目か経った後、彼女の母は初めて健三を訪ずれた。用事は細
  君が健三に頼んだのと大同小異で、もう一遍彼等を引き取って呉れという主意を畳の
  上で布衍したに過ぎなかった。既に本人に帰りたい意志があるのを拒絶するのは、健
  三から見ると無情な挙動であった。(五十五)

 健三は追い出したはずのお住の下駄を見て、新しい下駄を買うようお金を渡す。そして、お住の母親が健三に対してお住と子供を引き取って欲しい、と頼むとそれを無下にするのは「無情な挙動」として引き受ける。健三がお住の下駄を見てお金を渡した事、お住と子供を結局は自分の元に帰ってきても良しとした事、この二つの行動が示す意味は愛故なのだろうか。
 そこで考えたいのは、『道草』で大きく取り上げられている”金”と”義理”の問題である。主人公である健三はお住という女性と結婚し、三人の子供がいる。職は明確には記されていないものの、主に物書きをしており、収入は決して少ないわけではなかった。兄と姉がそれぞれ一人おり、さらにもう一人兄がいたが若くして亡くなっている。健三は幼少期を島田夫妻の元で養子という身分で過ごす。健三が八歳の時に島田の元を離れ生みの親の元へ帰る。しかし、健三は実の父に良い感情を持っておらず、どちらかといえば島田を慕っていたことがうかがえる。

   健三は自分の父と島田とが喧嘩をして義絶した当時の光景をよく覚えていた。然し
  彼は自分の父に対してさほど情愛の籠った優しい記憶を有っていなかった。(十六)

 島田夫妻の関係に亀裂が入り始めると健三を巻き込み関係性は悪化する。次第に島田夫妻は健三の実父の元へお金を要求するようになる。それは健三が二十二歳の春になるまで続いた。また健三自身もお住と結婚してからは姉の家庭にも小遣いや金貸しを懇願されたり、親族などからもお金を要求されるようになる。そこへ島田が健三の前に現れ、家計が苦しい為にお金の工面をして欲しいと頼まれるようになる。健三は姉や親族、島田へのお金の貸し出しを”義理”や人情という形で工面していく。
 この義理や人情、つまり健三が自身を取り巻く人間に金を貸す理由は何なのだろうか。その一つとして明確にあるのが、中途半端な自分の所在である。健三は昔、学校を卒業すると学校から四十円を貰いその半分を実父に取られ、残りの二十円で古い寺の座敷を借り、芋や油揚げばかりを食べるという貧相な暮らしをしていた。その間、健三は何もすることはなく、また、経済状況が変わった現在の健三も結局は何をすることもなく過ごしている。何かをする、というのは健三にとって金持ちになるか、偉くなるかのどちらかだと言う。しかし、現在も尚、どちらに傾くでもなくまた現在だからこそ様々なものが邪魔をし、その邪魔をするものがやはり金なのだ、と言う。
 明治時代は貧富の差が現代よりも激しく、国民のほとんどはあまり安定した生活を送れていなかった。だからこそ、『道草』の中でもあるように頻繁に金の貸し借りが行われていた。その金の貸し借り故に人との関係性もこじれていたことも少なくはなかっただろう。「金の切れ目は縁の切れ目」と言う言葉もある通り、金が絡むと人との関係性は拗れていく。健三は島田と実父との関係性を幼い頃から見ていた。そこには必ず、金があった。だからこそ、健三は金持ちもしくは、偉くなることで人との関係性を保とうとしていたと考えることができる。つまり、健三が金を自分の周りの人間に貸す理由は世話になっているから貸す、と言うものではなく面倒な人間関係の拗れを少しでも回避したいために金を使って保とうとしているのである。健三にとって金は面倒なことを解決、もしくは回避しようとする手段であった。
 健三とお住の間にあった直接的な金銭のやりとりは先述の下駄のシーンのみである。お住の下駄が壊れかかっているのを見た健三が不憫だからとお住に金を渡したが、これは健三がお住に対し面倒で回避したい関係性だから行なった事だとは考え難い。
 ここまでで健三とお住の間に愛はあった、と断言することは浅はかである。そこで新たに考えたいのは、健三の女に対する見方だ。先述した通り、健三は再三お住に対し学問がないことを理由に論理性がないと馬鹿にする態度をとる。例えば、健三が島田と再び関係を持つようになった時、お住がそれに口を出した場面である。

  「御前や御前の家族に関係した事でないんだから、構わないじゃないか、己一人で極
  めたって」
  「そりゃ私に対して何も構って頂かなくっても宜ござんす。構って呉れったって、ど
  うせ構って下さる方じゃないんだから、……」
   学問をした健三の耳には、細君のいう事がまるで脱線であった。そうしてその脱線
  はどうしても頭の悪い証拠としか思われなった。「又始まった」という気が腹のなか
  でした。(十四)

 このように健三はお住のことを学問がない、と非難する。この非難は作中で度々行われ、健三はお住の言うことに耳を傾けようとしなかったり否定するという行動をとる。また、それだけではなく健三には度々、男尊女卑的な言動が見られる。これは健三が特別に偏った思想である、という訳ではなくやはり明治という時代背景がある。当時、人々の意識の中には明治以前よりあった男尊女卑という考えが根強く残っていた。健三もその思想を受け継ぎ、男尊女卑に加え、教育を受けている者の方が偉いという考えが根強い人物であった。さらには作中で女の生き方について健三はこう捉えている。

   不思議にも学問をした健三の方はこの点に於て却って旧式であった。自分は自分の
  為に生きて行かなければならないという主義を実現したがりながら、夫の為にのみ存
  在する妻を最初から仮定して憚らなかった。
  「あらゆる意味から見て、妻は夫に従属すべき者だ」
   二人が衝突する大根は此所にあった。
   夫と独立した自己の存在を主張しようとする細君を見ると健三はすぐ不快を感じ
  た。動ともすると、「女の癖に」という気になった。それが一段劇しくなると忽ち
  「何を生意気な」という言葉に変化した。
   (中略)
  「女だから馬鹿にするのではない。馬鹿だから馬鹿にするのだ、尊敬されたければ尊
  敬されるだけの人格を拵えるがいい」(七十一)

 こうした健三の考えは旧式とは言われるものの男性の中では当たり前の思考であった。女性によって徐々に意識の変化はされていたものの、やはり、多くの男性にとって女性というもの、もしくは妻というものは夫に付き従い、夫を支え、尽くすものという意識が多分にあった。だからこそ、健三は自分の意思を持ち健三に従わないお住を批判し教育も受けていないくせに意思などを一人前に主張しようとするお住を否定し続けていたと考えられる。
 健三の母親像や女性像を作り上げた一つの要因として、養子時代がある。それが御常との関係性である。御常とは島田の妻の事で島田との夫婦間がこじれると波多野という男の元へと嫁いでいく人物である。島田と御常は養子としてきた健三を専有物にしようと必死になっていた。

  「御前の御父ッさんは誰だい」
   健三は島田の方を向いて彼を指した。
  「じゃ御前の御母さんは」
   健三はまた御常の顔を見て彼女を指さした。
   これで自分達の要求を一応満足させると、今度は同じような事を外の形で訊いた。
  「じゃ御前の本当の御父さんと御母さんは」
   健三は厭々ながら同じ答を繰り返すより外に仕方がなかった。然しそれが何故だか
  彼等を喜ばせた。(四十一)

 このように島田と御常は健三に対し刷り込みを行なっていた事がわかる。この刷り込みに対し、健三は従うより外に術がない状態であった。養子として今まで過ごしてきた血の繋がった家族とは異なる家庭に単身住み込み、世話になるのは子供にとって多大なストレスとなるに違いない。養父母に気に入られなければ自分の生活さえ保証されなくなってしまうと考えると、健三のように本心では嫌がっていても養父母の望むままに応える必要があったのかもしれない。そして、島田と御常の関係性が拗れていくと御常からの要望は次第に高まっていく。

  「これから御前一人が依怙だよ。好いかい。確かりして呉れなくっちゃ不可いよ」
   こう頼まれるたびに健三は云い渋った。彼はどうしても素直な子供のように心持の
  好い返事を彼女に与える事が出来なかった。
   健三を物にしようという御常の腹の中には愛に駆られる衝動よりも、寧ろ慾に押し
  出される邪気が常に働いていた。それが頑是ない健三の胸に、何の理窟なしに、不愉
  快な影を投げた。然しその他の点について彼は全くの無我夢中であった。(四十四)

 御常はしきりに健三に対し島田や島田と関係があったとされる御藤に対する恨み言を言い、涙を流していた。御常は悲しみを表出させ、健三にそれを見せる事で健三を自身の味方につけようとしていた。しかし、却って健三は御常のこうした束縛にさらなる嫌気を募らせ、結局は御常が健三から姿を消す形で二人の関係は終わる。
 健三は度々、お住に対しても御常や島田のような影を子供に対する接し方から感じていた。

   日が重なっても彼は赤ん坊を抱いて見る気にならなかった。それでいて一つ室に塊
  っている子供と細君とを見ると、時々別な心持を起した。
  「女は子供を専領してしまうものだね」
   細君は驚いた顔をして夫を見返した。其所には自分が今まで無自覚で実行して来た
  事を、夫の言葉で突然悟らされたような趣もあった。
  「何で藪から棒にそんな事を仰ゃるの」
  「だってそうじゃないか。女はそれで気に入らない亭主に敵討をする積なんだろう」
  (中略)
  「女は策略が好きだから不可い。」(八十三)

 健三自身が島田と御常の専有物にされていたためか、子供に懐かれているお住をみると幼いころの自分を重ねてお住が何か企んでいるのではないか、という思惑が出てくる。妻と子供が仲睦まじくしている輪に入っていけない事、そうして自分を阻害して敵討ちを取ろうとしているのではないか、という疑念を感じるのである。島田と御常によって作られた健三の疑念はお住にも向けられ、それがお住を追い詰め二人の溝をさらに深めてしまったと考える。
 これらのことから、健三はお住に対し愛情を持っていたのかという本来の疑問についてまとめていく。まず、健三の性質である面倒で回避したい人間関係について金で解決するという点である。これは、実質お住との間に直接的な金の貸し借りは行われておらず、また、下駄のシーンに関してもお住との関係を回避したいがために金を渡したのではなく、お住を思っての行動であった、と推測することができる。そのため、健三にとってお住は姉や兄、島田などといった金銭で繋がっている人々とは違う、特別な感情を持っていたと考えられる。次に健三の女性や妻、嫁に対する理想像である。これには明治時代特有の価値観や養子時代の島田、御常との関係性によりできた思考が健三の中にある。一つは、女は教育を受けていないために論理性がないということ。また、論理性が無いにも関わらず、自己の存在を主張しようとするという考えである。そしてもう一つは、女というものは子供を専領し味方に付け夫に敵討ちをしようと企んでいる、という考え方である。こうした考えから、健三の理想とする夫婦像とは女は夫に付き従い、良く気が効くことであった。また同時に、子供を専領せず夫に楯突かない人物を望んでいた。その価値観や思考を頑なに変えようとしないためにお住とすれ違いが起き、二人の間にある溝はさらに深まっていったのである。しかし、否定するばかりではなくお住を気遣う場面が三女の出産の場面で見受けられる。つまり、健三はお住に対し愛情がなかった訳ではないということが結論として言える。

 三、お住の家族観とその背景ーー健三に求めるものーー
 次に見ていきたいのは本論の主軸でもあるお住が持つ理想の夫婦・家族像である。これまでは健三の生育歴や価値観に触れることで明治時代にあった強い固定概念や金と人との関係性などを見てきた。女性として生きる権利を獲得していこうとした明治時代にお住という女性は自身の生き方をどのように捉え、健三との関係を築こうとしたのか。また、その背景にはお住のどのような家庭環境があったのだろうか。そして最も注目したいのは、『道草』に描かれる出産という部分についてお住と健三双方の考えを元に漱石の思考を読み解いていく。
 まずは、お住の家族について見ていく。お住には父と母、それから一人の弟がいる。

  彼女は形式的な昔風の倫理観に囚われる程厳重な家庭に人とならなかった。政治家を
  以て任じていた彼女の父は、教育に関して殆んど無定見であった。母は又普通の女の
  様に八釜しく子供を育て上る性質でなかった。彼女は宅にいて比較的自由な空気を呼
  吸した。そうして学校は小学校を卒業しただけであった。(七十一)

 この様にお住はごく一般的な家族構成で、それほど厳ではない家族の元で日々を送る。しかし、お住が健三の元へ嫁いだあと、父が貴族院から外れてしまい相場に手を出してしまう。そうなるとお住の家族の経済状況は悪化の一途を辿っていく。しかし、お住は健三から金を借りようとはせず、相場をした父を責める。相場をした要因はお住とその娘たちを健三が外国に行っている間に少しでも工面しようとした結果であったがお住はそのことを知らない様であった。お住自身は健三の様に養子に出された訳でも両親との仲が悪かった訳でもない。実父と養父母に挟まれ大人の顔色を伺いながら過ごし、誰かしらの専有物にならざるを得なかった日々を送った健三と、安定し金銭的にも余裕があり自由に育つことができたお住とでは育った環境によって異なる価値観が育まれていることがわかる。
 また、お住は度々健三との言い合いの中で健三の言うことは論理ではない、と健三の論理を否定する。同時に度々健三に男らしさを求めているが、お住の求める男らしさとは何なのだろうか。
 お住は健三の元へ嫁ぐ前に知っていた男性といえば、父親、弟、それから官邸に出入りする二三人の男であった。これら全ての性格について細かく書かれていることはないが、お住の父親の性格は先述の通り、「教育に関して殆んど無定見」であり娘のために家計が傾いていても相場をしてまで救おうとする様な人物であった。一方で健三はそうした性格とは異なる人物であった。

  そうしてその人々はみんな健三とは異った意味で生きて行くものばかりであった。男
  性に対する観念をその数人から抽出して健三の所へ持って来た彼女は、全く予期と反
  対した一個の男を、彼女の夫に於て見出した。彼女はその何方かが正しくなければな
  らないと思った。無論彼女の眼には自分の父の方が正しい男の代表者の如くに見え
  た。彼女の考えは単純であった。今にこの夫が世間から教育されて、自分の父のよう
  に、型が変わって行くに違いないという確信を有っていた。(八十四)

 お住にとって健三は正しくない男で、世間から教育されなければならないとすら思っていた。その要因は健三が女だからと仕切りにお住の考えやすることを批判していたからである。子供の世話もするわけでもなく金の管理も妻に任せる。その妻に対して教育がないから言論に論理性がないと批判したり、バカにしたりと散々な態度をとる。こうした態度にお住が傷つかないわけがない。お住の周りの男性にはそうした失礼な態度をとり、お住を傷つけようとする人はいなかった。また、自己を主張するお住を否定する人も少なかったのだろうと推測することができる。反対に健三はお住の自己を主張しようとする所に否定的な考えを持つ、旧式な男であった。このことから、お住の周りの男性は女性が自己を主張することに寛容的で女性だからといって否定するような人はいなかった、と考えることができる。
 以上のことから、お住は教育こそ健三よりは受けていないが生き方に固定観念の少ない両親に育てられることで、性別により優劣ではなく夫も妻も対等な関係性を保つことができ、女性も自己を主張して生きることができるという考えを持っていることがわかる。健三が旧式の考えを持つ人であるならば、お住は明治の変動を野生的に感じ最新の考えを持っている人であった。また、そうした考えを持つことにお住の周囲は寛容であったことがわかる。
 そうした環境で育って来たお住が健三に対し求めたものはなんだったのだろうか。健三はお住に、お住は健三に言葉や態度を求めながらもお互いにそれを補うことをせずにいた。さらにお住は健三の性別による差別を受けていると感じており、女だからどう、男だからどう、という考えをやめて欲しいと常々思っていた。つまり、お住が健三に求めるものとは性別で判別するのではなく個人としての自分の意見を聞いて欲しい、また、もっと自分を見て欲しいという二点である。 
 お住が健三に求めている理想像を考察した所で女性の生き方という観点から『道草』でとりわけ特徴的に表現されている出産について見ていきたい。お住は出産について次のように語る。

   毎朝夫を送り出してから髪に櫛を入れる細君の手には、長い髪の毛が何本となく残
  った。彼女は梳くたびに櫛の歯に絡まるその枝毛を残り惜気に眺めた。それが彼女に
  は失われた血潮よりも却って大切らしく見えた。
  「新しく生きたものを拵え上げた自分は、その償いとして衰えて行かなければならな
  い」
   彼女の胸には微かにこういう感じが湧いた。然し彼女はその微かな感じを言葉に纏
  める程の頭を有っていなかった。同時にその感じには手柄を手にしたという誇りと、
  罰を受けたという恨みと、が交じっていた。(八十五)

 女の髪は命である、という言葉がある通り未だ二十歳代であるお住にとっても同様で髪は大切なものであった。その髪が櫛で梳く度に抜けるのを目の当たりにするのはどれほどの悲しさであったのだろうか。しかし、その悲しさをお住は新しい命を産んだことによる償いで、髪が抜けるのも自身の身体が衰えていくのも罰である、という考えを持っているのである。また、健三も出産についての考えを次のように持っている。

   出産率が殖えると死亡率も増すという統計上の議論を、つい四五日前ある外国の雑
  誌で読んだ健三は、その時赤ん坊が何処かで一人生まれれば、年寄が一人何処かで死
  ぬものだというような理窟とも空想とも付かない変な事を考えていた。
  「つまり身代わりに誰かが死ななければならないのだ」
   (中略)
  その身代わりは取も直さず赤ん坊の母親に違なかった。次には赤ん坊の父親でもあっ
  た。(八十九)

 健三は新しい命と引き換える形で古い命が死ぬ、という持論を外国の雑誌の情報から導き出す。その引き換えとなる古い命とは母親であり、その次が父親であるという。命の引き換え、という考えはお住の償いと罰とは少し異なる。お住の考える償いや罰とは母体の体が削れていくことを指している。一方で、健三の持論は所謂、仏教の輪廻のようなものを指していると考える。さらに健三の母親という考え方について次のように記されている。

  「芭蕉に実が結ると翌年からその幹は枯れてしまう。竹も同じ事である。動物のうち
  には子を生む為に生きているのか、死ぬ為に子を生むのか解らないものが幾何でもあ
  る。人間も緩漫ながらそれに準じた法則に矢ッ張支配されている。母は一旦自分の所
  有するあらゆるものを犠牲にして、子供に生を与えた以上、また余りのあらゆるもの
  を犠牲にして、その生を守護しなければなるまい。彼女が天からそういう命令を受け
  てこの世に出たとするならば、その報酬として子供を独占するのは当たり前だ。故意
  というよりも自然の現象だ」
  (中略)
  「子供を有った御前は仕合せである。然しその仕合を享ける前に御前は既に多大な犠
  牲を払っている。これから先も御前の気の付かない犠牲をどの位払うか分らない。御
  前は仕合せかも知れないが、実は気の毒なものだ」(九十三)

 健三のこの考えは、動物は子孫を残すために生まれて来たのか、死ぬという終末があるから命を繋ぐために子孫を残すのかはわからないが生を繋ぐために子を生む母はあらゆるものを犠牲にし、また子が生まれた後もその犠牲を払う必要があるというものである。その代わり、子を独占するのは報酬であるという考えである。それが幸せなのかそうでないのか、というのが健三を通した漱石の問いなのではないだろうか。
 国の繁栄のために多くの働き手、そして次世代の働き手が必要で有った日本は家族を持つことを当たり前の価値観として人々に植えつけた。そして、子供をより多く産ませるために家庭を持つこと、子供がいることが幸せの象徴であると宣伝して来たのである。⑸こうした考えに人々はまんまと流され、幸せの象徴を身につけようとする。しかし、漱石はそうした幸せの象徴である子供という存在を生むには女性が多大な犠牲を払わなければならないことを指摘した。そしてその犠牲を払ってでも手に入れる幸せは真の幸せなのか、そうでないのか、という問いを投げかけているのではないだろうか。子供を持つという幸せを手に入れるために女の身体は多大な犠牲を払わなければならない。個人の幸せや生きる権利が主張され始めた明治という時代だからこそ、人々が作り上げた幸せの象徴を漱石は見直す必要性を主張したかったのではないだろうか。
 健三もお住も決して良い夫婦というわけではなかった。育ちが違えば、考え方ももちろん異なる二人が求めた夫婦像や家族像。一方では、自身に付き従い配慮に足りる関係性を求め、もう一方では性別に縛られず対等な関係性を求めた。その違いには変わりゆく時代の流れと共に、育って来た環境による家族に対する見方があった。男尊女卑や女性の生きる権利がまだ確立しきれていない時代だからこそ、時代の狭間で若い夫婦は衝突を繰り返しながら家族というものを形成していった。

   第二章 『消滅世界』から見る家族のかたち

 一、夫婦・家族の崩壊ーー血筋、家系の消滅ーー
 第一章では明治時代の人々が求める夫婦・家族の形について『道草』から読み解いて来たが、第二章では村田沙耶香の『消滅世界』を元に現代の人々が夫婦・家族の形に求めるものを読み解いていく。
 『消滅世界』は二〇一五年に刊行されたSF小説である。主人公、雨音が住む世界では交尾により繁殖を行う人種はほとんどいなくなり、ヒトは人工授精によって子を宿すようになる。二次性徴期を迎えると男女共に避妊処置が行われる。人は妊娠・出産を科学的交尾によって行うため妊娠・出産と恋愛状態とは切り離される。子供が欲しくなると、恋人ではなくパートナーを見つけ、女性が病院で人工授精を受け、出産をする。のちに男性も人工子宮を用いて妊娠・出産を行えるようになる。また、人の恋愛対象は様々で同じヒトのこともあればアニメのキャラクターになることも多々ある。恋愛状態が進み発情状態になるとマスターベーションで性欲を処理する。
 これらが「正しい」とされる時代に雨音は両親が肉体関係を持ち産まれた古風な子供として誕生する。妊娠を目的とする挿入行為が必要とされない時代で、その行為によって誕生した雨音は母親に自分と同じように人を愛し、愛し合うことで子供を作るという呪いをかけられる。それに刃向かうように雨音は清潔な家族を望むようになる。そして、雨音が行き着く先は楽園(エデン)と呼ばれる実験都市であった。そこには、セックスも家族も存在しないみんなの「子供ちゃん」がおり、そこにいる大人の全てが「子供ちゃん」の「おかあさん」なのである。雨音はこの世界の「正しさ」を吸収し食らうことで世界に洗脳されていく。そうして世界の一部となって溶けていくという話である。
 『消滅世界』で着目したいのは夫婦や家族という関係性が楽園(エデン)の中にいることで崩壊し個別性が消滅していくことである。明治時代は家を継ぐこと、家系の血筋を絶やさないことが重視されていた。だからこそ、男性も女性も早くに結婚をして子供を中でも男児の出産を求められていた。そのため、男女の役割は明確に分けられており女性はそうした役割によって生きる権利を奪われていた時代でもあった。しかし、現代は違う。全く同じというわけではないが、女性の生きる権利は確保され性別に左右されない個としての生き方が尊重されている。『消滅世界』はそうした現代の個の尊重を踏まえ、旧来の結婚やパートナーという形を物語の中で変化させている。
 この世界では、人工授精で妊娠・出産をするため性行為を結婚相手とする必要がない。そのため、結婚相手ではないパートナーを作ることが認められている。

  仕事が落ち着いたころ、そろそろ子供が欲しくなり、婚活パーティーで知り合った男
  性と二十五歳で結婚をした。
   しかしそれは長く続かず、すぐに離婚となった。
   彼とはお互いの仕事のことを考え、二十八歳の私の誕生日に人工授精する予定だっ
  た。
   夫にはちゃんと恋人がいた。(四十七頁)

 自分のタイミングで結婚や出産を決められるこの世界は婚活パーティーで相性の良い人と出会い、その人と計画を立てて人工授精による出産を考えることができる。この仕組みは現代の若者がマッチングアプリを使用し交際相手を決めたり、婚活を行う習性を捉えていると考えられる。先述の通り、結婚相手とは性行為の必要がないため外でパートナーを作ることも公認である。しかし、結婚相手から性行為を受けた場合、どのようになるのだろうか。

   けれどある日、事件が起きた。犬を撫でるようだった彼の手付きが、急に性的な動
  きへと変わったのだ。
   さっきまでとは違う意味をもって動き始めた手に、あれ、でも気のせいかな、と思
  っていると、急に尻と胸をまさぐられた。慌てて立とうとすると、勃起した夫のペニ
  スが膝に当たった。
   私は呆然とした。
   まさか、『家族』に勃起されるときがくるとは。
  (中略)
   夫の両親は、彼を責め立てた。
  「普通、そういうことは外ですることでしょう。よりによって奥さんと性行為をする
  なんて」(四十八頁)

 この世界では結婚した者同士で性行為をすることを近親相姦と捉えている。つまり、「家族」となるパートナーは性欲をぶつけていい相手ではない。よって、そこに住む全員が「家族」となる楽園(エデン)では性欲を人に向けることは禁止とされている。人の中にある性欲は排泄物のように自宅でひっそりと一人で処理することが義務付けられている。みんなが家族となる楽園(エデン)では恋をするという感情が人々の中に存在せず、楽園(エデン)の外には恋という感情が人々の中に渦巻いている。その対象は異性や同性、プラスチックの中にいるアニメのキャラクターなどに様々な形でぶつけられる。恋人同士ではセックスをする場合もあるが、やはりこの場合も妊娠を目的とする挿入行為は行われずにいる。人工授精が行われるようになり、恋と性欲と結婚そして、出産がそれぞれに分別されるようになった時、「家族」はどのような意味を持つのだろうか。
 この世界での「家族」について、雨音と会社の人達でランチを食べる場面で次のように触れている。

   今の時代、結婚は、子供が欲しいか、経済的に助け合いたいか、仕事に集中したい
  ので家事をやってほしいか、そう言う合理的な理由ですることが多い。もちろん、単
  にパートナーが欲しくて結婚する人もいるが、だったら友達と暮らした方が気楽だと
  いう人も増えている。
   家族というシステムは、生きていく上で便利なら利用するし、必要なければしな
  い。私たちにとってそれだけの制度になりつつあった。
   結婚する人の割合はどんどん減っていると、周りを見ていても感じる。先日のニュ
 ースでも三十代で結婚している人口は35%になったとやっていた。(七十四-七十五
  頁)

 このことから、明治時代とは明らかに異なっていることがわかる。個人の意思が尊重され、科学や制度の発達により、結婚するかしないか、家族を持つか持たないかの選択が容易にできるようになっているのである。「家族」は持つべきものではなくなっているのである。
 では、「家族」を持つものが家族に対し求めるものは何なのだろうか。次の雨音と夫である朔の会話から考察していく。

  「『家族』って不思議だよね。お互いにあんまり肌を見せないじゃない?でも、たと
  えば具合が悪いときとか、恋人に見せない吐いてる姿なんかも見せたりする。それで
  全然恥ずかしくない。面白いよね」
  「それが『家族』なんだよ。うん、こうしているとやっぱり雨音さんは特別だな。
  『家族』だからかなな、やっぱり」
  「子供ができるのが楽しみだね。自分だちの遺伝子を受け継いだ子って、可愛いだろ
  うな。男の子がいい?女の子がいい?」
  (中略)
   ははは、ははは、ふふふ、ははは、ふふふ、と私たちは笑い声をあげる。幸福な家
  から出る音色を鳴らす。きっと数年後にはここに、私たちの子供の笑い声も加わっ
  て、私たちはもっと大きな音で、幸福な家の音を鳴らし続けている。
   家族、家族、家族、その呪文を唱えるたびに、私は安心していく。
   恋を失っても、私には家族がいる。子供だって産む。
   私は子宮で世界とつながっているのだ。
   そのことは、私を安堵させた。(百五十一ページ)
 
 「家族」である朔には肌を見せないがお互いの弱さは見せ合う。性的関係はないが、情緒的な関係が「家族」という言葉を使って結ばれている。恋と性欲と結婚、出産がそれぞれに分別されるようになった家族の形は精神的な繋がりを「家族」という言葉を使って結びつけていたのだった。
 雨音はさらに楽園(エデン)に住む中で家族を欲した動機について次のように語る。

   なぜ自分は「家族」が欲しいと願ったのだろう。そのことがわからなくなり考え込
  むこともあった。
   その一番の動機は「孤独」なのだろうと思っていた。しかし、全員が一人で暮らす
  この世界では、あっさりとその感覚はなくなってしまった。
   他のシステムの中で実際に繁殖をはじめてみると、「家族」というのは無数にある
  動物の繁殖システムの一種にすぎなかったのだと思えてくる。もし、この「楽園(エ
  デン)システム」が失敗したとしても、他にいくらでも選択肢はあるのだということ
  を、私たちは知ってしまったのだ。
   辛うじて私を「家族」という者に繋ぎとめているのは、「自分の遺伝子を受け継ぐ
  子供と会いたい」という気持ちだけだった。しかし、それも考えれば考えるほど、不
  確かな感覚だった。
  「本当は、僕らはもうすでに失っているんだよ」(二百七頁)

 最後の言葉は朔が家族という感覚を人工授精が始まったことで失っているんだ、と言った場面を雨音が思い出しているものである。「家族」を欲した動機は「孤独」だったがみんなが孤独になった世界ではその感覚はなくなった。世間は家族を持つ、という幸せの象徴を作り出し、宣伝することで家庭を持っていないものには孤独感を持たせ、家族を作らせるという繁殖のシステムを構築させていた。それは明治時代にあった国家の繁栄のために国民に植え付けた価値観と同等のものである。ただ、自分の遺伝子を受け継ぐ子供という存在は繁殖システムにおける宣伝には叶わない強い繋がりを感じることができるのだろうか。しかし、その考えも楽園(エデン)の中で朔が出産を成功させたことで雨音の中で崩壊してしまう。
 雨音と朔はお互いの遺伝子を受け継いだ子供を産もう、と約束をし恋という激情から疲れ果て、逃れるように楽園(エデン)へやってくる。人工授精を雨音と朔両方が受け、雨音は妊娠できず朔だけが受精に成功した。その受精に成功した子供は雨音と朔の遺伝子を引き継いでいるもので、雨音は必ず生まれたら二人で育てようと言う。自分の遺伝子を受け継ぐ子供に会いたい、と言う雨音の思いは朔の出産を機に果たせずに終わる。
 朔は産んだ子供はみんなの「子供ちゃん」だ、と言い張りその奇妙な出産シーンに立ち会った雨音は朔から生まれた自分の遺伝子を受け継いだ子供を見ても感情が湧かなかった。
 個としての家系や血筋の必要性が無くなった時、そして出産というものに男も女も関係がなくなった時、成熟した人の身体は世界に子孫を残すための子宮になる。個としての繁栄がなくなった時、血筋としての繋がりや精神的な繋がりを持っていた「家族」というものは崩壊していのである。

 二、雨音の家族観とその背景ーー「正しさ」と異質ーー
 『消滅世界』の世界観は「家族」とセックスの消滅がメインテーマであった。その中で主人公でもある雨音の求める「家族」とセックストは何だったのだろうか。
 雨音は出自から異質であった。この世界では異質とされる古い方法を使って生を受けた雨音は母から呪いをかけられる。

  「雨音ちゃんも、いつか好きな人と愛し合って、結婚して、子供を産むのよ。お父さ
  んとお母さんみたいに。そして愛する二人で、大切な子供を育てるのよ。わかっ
  た?」
  「うん」
   私がおとなしく話を聞いてると、母は機嫌がよかった。保育園はあまり好きではな
  かったので、母の与える世界が、私のすべてだった。
   だから私は、母の与える「正しい世界」を全身で吸収しながら育った。(八頁)

 この呪いは幼い雨音にとって最初の「正しさ」を与えた。しかし、この「正しさ」が次第に世の中の「正しさ」とは異なることを雨音は知る。

   しかし、翌日の性教育の授業では、昨日とは全く違うことを教えられた。人工授精
  のしくみと、それによって子供が生まれる生命の神秘についてのDVDを延々と見せ
  られたのだ。(十一頁)

 世の中の「正しさ」を知った雨音は同時に自分の中にある異質さを知る。雨音は両親が敢えて避妊装置を外しこの世界では異質な交尾をして生まれたことに気持ち悪さを覚えると両親とは違い、人に恋をしていない自身に安堵する。雨音の恋の相手はアニメーションの男の子、ラピスであった。この世界での恋愛は人同士だけではなくアニメーションの中にあるキャラクターを対象とすることも「正しい」ものであった。雨音は初恋の相手であるラピスに初めて発情しセックスをする。

   身体の中で、まだ使ったことがない臓器が疼いていた。
   私はその臓器の声に従うように、タオルケットに絡めた脚に力を込めた。
   臍より少し下の部分の奥が痛かった。
   力を込めた脚を揺さぶると、体中の血液が炭酸になってはじけるような感覚がし
  て、そのまま力が抜けて行った。
   私は古い本でしか読んだことがない「セックス」というものを今、自分とラピスが
  したのだと思った。(十八頁)

 この世界の中で、セックスという行為をする者は少なくなってきている。何故ならば、する必要性がないからである。人工授精による出産が行われ、性欲を一人で処理することができる世界では、妊娠を目的としない挿入行為に意味を持たない。完璧に消滅してしまったわけではないが、多くの人がセックスという行為の必要性を感じなくなってきているのである。その中で雨音はラピスとセックスを行う。私達が知っている行為とは異なり、それこそ自慰行為ともとれるこの行為を雨音は「セックス」と呼ぶのである。
 雨音はラピスに感じた発情に対し一つの疑惑を持つ。

   母は、母が信じる本能を私の身体に植え付けようとしている。だが、そうではな
  い、本物の私の本能が、きっとどこかにあるはずだと、私は思っていた。
   今までは、それがラピスに対する発情だと信じていた。自分の発情が、世界の常識
  と符合していることに、安堵していた。
   けれど、違うのかもしれない。私の肉体の奥底には、母が言うような、好きな人と
  交尾して、「家族」である「夫」との近親相姦の末に子供を孕みたいというような本
  能が沈んでいるのかもしれない。世界の秩序と噛みあわない発情が身体の中で動き出
  したら、私はそれに引きずられながら生きていくしかないのかもしれない。(二十九
  頁)

 このように雨音は自分の中にある世の中の「正しさ」とは異なる本能を感じるようになる。この世界の普通の人が持つ本能とは異なるものが自分の中にあるのかもしれないという意識とそれに抗おうとする意識の両方を持つ雨音はヒトとのセックスにより一つの答えを導き出す。

   子供のころ母が私に教え込んだ「愛し合って、子供を産む」のではない形をしてい
  る自分の発情を、何度も試したくなるのだった。
   私と恋人の挿入はいつも静かで、交尾には程遠かった。繁殖とは関係のない部分を
  使ってセックスをしている自分と出会うことができた。そのことを確認しては、安心
  するのだった。(三十八頁)

 雨音にとって妊娠を目的とする挿入行為、所謂交尾は繁殖という大きな目的に愛し合うという理由を付けたもの、という考えであった。何故なら、この世界では交尾をしなくても妊娠ができるからである。よって、雨音が行うセックスは繁殖を目的とするものではない。こう結論付けることで雨音は母の呪いから脱却する。しかし、ここで疑問に感じるのは、何故雨音はセックスという行為をするのかという部分である。この世界でセックスを行う者は少ない。まして、性欲は一人で処理することができるのである。それにも関わらず、何故雨音はセックスに拘ろうとするのだろうか。
 雨音は幼少期、まだこの世界の「正しさ」を知る以前は母の作る世界の中で母の言う「正しさ」を教え込まれてきた。それはつまり、この世界の「正しさ」とは乖離していた、と言うことである。だからこそ、雨音はこの世界の「正しさ」を吸収しようとするのだ。雨音は高校時代の親友である樹里に自身が両親の交尾によって生まれた子供である、と打ち明け、自身が何故セックスをするのかを次のように語る。

  「……あのね、私、父と母が交尾をして生まれたの」
  「……え?」
  「気持ち悪いと思う?わざわざ病院で避妊具を外して、夫婦で交尾をして私を産んだ
  の。父は私が物心つくころには別れて家にいなかったけど、母と近親相姦した人だと
  思うと、今でも気持ちが悪い。家に写真があるけれど、見ないようにしてる」
  「……」
  「ときどき、思うの。母は、私のことも呪おうとしてるんじゃないかって。私、ヒト
  とも恋愛をするでしょう?小さいころ、母に古い本をたくさん見せられて、いつか結
  婚をして、家族になった相手と近親相姦して子供を産むんだって信じ込んでいたの。
  そのあと『正しい世界』を知ったけど、身体の中に呪いが残ってる気がする」
  (中略)
  「……そうかな。私、確かめずにはいられないの。誰かを好きになると、その発情の
  形が、母と同じなんじゃないかって、確認せずにはいられない。自分のセックスが、
  母がしたような交尾とは違うんだって思うと、安心するの。だから、恋をすると必ず
  身体を繋げてしまう。汚いって思う?」
  「思わないわ。でも、不毛だとも思うけれど。だって、正しい発情なんて、どこにも
  ないもの」
  「そうかもしれないけど、私は、安心して発情したいの。ヒトを好きになるたびに、
  母の呪いなんじゃないかって、ぞっとする。そんな繰り返しはもう嫌なの。」(九十
  四-九十六頁)

 これらのことから、雨音がセックスに拘る理由には母からの解放があったことがわかる。この世界のヒトも決して性欲がないわけではない。それは人間の身体のシステムの一つに過ぎず、娯楽としてセックスを行ってもいいが、一人で処理をすることの方が清潔なことである、と言う認識がこの世界の「正しさ」なのだ。しかし、雨音にとっては異なる。母の作る世界の「正しさ」を吸収していた雨音にとって相手に対しての欲情は交尾をして子孫を残したい、と言う意味を持っていた。母の作る世界ではなく、この世界の「正しさ」を信じる雨音にとって、自分自身が相手に向ける性欲が母と同じであること、つまりこの世界での異質であることを否定したかった。それを確かめるために雨音はパートナーとのセックスに拘っていたのである。
 雨音は自身の出生が異質であることから必死に「正しさ」を吸収しようとする。一方で母の作る世界の「正しさ」に苦しめられ、逃れようと抗う。だからこそ、雨音にとって「家族」とはこの世界の「正しさ」に溶け込める制度の一つであった。また、実験都市である楽園(エデン)へと移り住むことで新たな世界の「正しさ」に飲み込まれる雨音は変わりゆく「正しさ」の中でそれらを吸収できずに発狂していくのであった。

   結論

 本論を通じて、明治時代から現代までの女性が抱く夫婦・家族への理想像はどう変わったのか、何を求めまた、その背景には何があるのかを解析してきた。
 『道草』では、明治という躍動の時代に夫婦・家族の形がどのようなものだったのか、またその背景について論じた。健三は養子という今でこそ当たり前ではない時期を過ごしたからこその女性への偏見があり、またお住は教育こそ受けてはいないものの夫婦間における性別による不平等さを健三にぶつけ、対等な関係性を求めたという結論に至った。
 一方、『消滅世界』では個としての「家族」という形の消滅や恋と性欲と結婚、出産が分断された中で「正しさ」を求める雨音という女性を論じてきた。
 はじめに、でも述べたように現代は一人ひとりの生きる権利が主張され、守られている。恋愛の形や結婚や出産に対する考え方、家族の形もそれに伴い変化してきている。反面、明治時代は異なる。結婚をすること、子供がいることを男女共に当たり前のように求められていたのだ。そこには国家としての成熟や繁栄が関係しており、人々に強い「正しさ」の価値を植え付けていた。『道草』における健三は過去の「正しい」夫婦像を押し付け、反対にお住は新しく変わろうとしている「正しい」夫婦像を健三にぶつけていた。その中で、漱石が描く出産という部分に触れ、子供を産むことについて、償いや罰、犠牲という言葉を用いて真にそれが幸せなのか、という問いについても言及をした。
 『消滅世界』でも「正しさ」という部分に着目して論じている。雨音は自身のことを異質と見ていたが、その異質は変わりゆく時代の中で作られた「正しさ」に沿わないという意味であった。では、「正しさ」とは一体何なのだろうか。
 日頃の会話の中で、もしくは学校教育の中で自身の人生プランを考えることもあるだろう。結婚は何歳ごろまでに、出産はいくつまでにしたい。特に女性は自身のキャリアについて時に深刻に悩むこともあるのかもしれない。今、交際をしている人と結婚を考えるかのかという悩み、周りは結婚や出産をしているという焦り。子供が欲しいのか、出産はいつ頃が都合がいいのかなど、考え出せばキリのない面倒さが現代を生きる人々の目の前には広がっている。何を基準にどんな判断軸でそれらを決めればいいのだろうか。結婚をすることや子供を産むことが真の幸せなのか。その真の幸せは現代の「正しさ」なのだろうか。
 こうした疑問について本論で扱った『消滅世界』で雨音の親友でもある樹里が次のように述べる。

  「だから、安心な発情なんてないのよ。人間はどんどん進化して、魂の形も本能も変
  わってるの。完成された動物なんてこの世にいないんだから、完成された本能も存在
  しないのよ。誰でも、進化の途中の動物なの。だから世界と符合していようが、いま
  いが、偶然にすぎなくて、次の瞬間には何が正しいとされるかなんてわからなくなっ
  ているのよ」(九十六頁)

 「家族」に関する問題は尽きない。それは制度の中に生きる人々が意思を持つ人間だからである。だからこそ、「正しい」という枠組みを作ることで人々は安心感とそれに反する不満を持つのかもしれない。そうした不満が新たな「正しさ」を形作っていくのだろう。しかし、誰かの生きやすさは誰かの生きにくさでもある。私たちはシステムで動くロボットではない。意思を持ち、感情のある人間である。そして、進化をしていくものでもある。「家族」に関する問題は尽きないが、誰もが自分自身の持つ「正しさ」を人に押し付けることなく、柔軟に受け止めあえたならば健三もお住も雨音もそして、私たちも今より少しだけ生きやすくなるのかもしれない。


付記


本論文内の引用は次に拠る。
  夏目漱石 『道草』 新潮文庫 一九五一年
  村田沙耶香 『消滅世界』 河出書房新社 二〇一五年年

本論文における明治時代の家族に関する参照は次に拠る。
  1、牟田和恵 『明治期総合雑誌にみる家族像「家庭」の登場とそのパラドックス』

参考文献
  堀越英美 『不道徳お母さん講座 私たちはなぜ母性と自己犠牲に感動するのか』 河出書房新社二〇一八年

#卒論公開チャレンジ #夏目漱石 #村田沙耶香 #道草 #消滅世界 #文学

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