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時間と労力を「節約」した先にあるものって?

先日、ひょんなことから、鰹節削り器とたくさんの鰹節が我が家にやってきた。

ここ数年憧れていた、削り立ての鰹節で出汁をとる暮らし。
パック入りの削り節を使うのに比べると、ちょっぴり手間はかかるけれど、削る感覚や音、香りに向き合うのは、なかなか豊かなひとときだ。とある日の夫は、「無性に鰹節を削りたくなって」と、その日使う分以上に削り続けていた。

そんなこんなで、晩ごはんのお味噌汁用の鰹節を削りながら、ふと思ったことがある。



現代は、薪を焚べてかまどで調理する必要もなければ、川に洗濯しに行く必要もない。鰹節だって、いちいち削らなくても、削り節がパックに入って売られている。

これ以外にも、テクノロジーやシステムのちからを受けて、個人や家庭という小さな単位においては、いろいろな場面で必要な時間や労力が小さくなっている。(社会や世界という大きな単位でみると、テクノロジーやシステムのために、膨大な時間と労力が投下されているような気もするが……。)

ということは。単純に考えると、その分、個人や家庭には、時間にも労力にも「ゆとり」が生まれているはず。そしてそのゆとりを、それぞれが思い思いに謳歌している。きっと、先人たちはそんな未来を思い描いて、あれこれ力を尽くしてきたのではないかと想像する。(そして、それは今もなお続いているのかもしれない。)

でも、自分や周りの人たちの暮らしを想像しても、なんだか「ゆとり」があるようには思えない。

それはなぜなのか。

薪で煮炊きをするしかなかった時代を体験したことがないから、今ある「ゆとり」に気付けていないのか?

浮いた時間や労力を、結局また別の場面で使っている(使わされている)(使わなくてはならない状況になっている)からなのか?

そもそも、テクノロジーやシステムを駆使して、日々の暮らしを営むための時間や労力をできる限り小さくすることを、望んでいるんだっけ?



「時間」のあり方について考えてみる

そんな疑問から思い出したのが、『半市場経済 成長だけでない「共創社会」の時代』という本。


利潤の最大化や、市場での競争が原理の「市場経済」のしくみに則りながらも、よりよき働き方、よりよき社会、よりよき生き方を目的に据えた経済活動のことを、この本では「半市場経済」としている。

経済と労働のこと、ビジネスと資本主義のこと、経済社会のこれまでと今とこれからのこと……いろいろなテーマや切り口から、経済とは何かに立ち返る考察がなされているのだが、中でも「時間」のあり方についての章がおもしろかった。


……近代以前の社会では、それぞれの共同体ごとに「われわれ時間」をもいえるような多様な時間が存在していた。「われわれ時間」はその地域の営みとともにあり、その共同体で共有されている関心によって創造される。だから、それは「時計の時間」のような絶対的なものではなく、そこで生活する人々の暮らしや想いに配慮するかのように伸縮する。そこでは「時間におわれる生活」などは本末転倒に感じられたはずである。たとえば、日本の伝統的な農村では、「話も十分にできないような田植方法は喜ばれなかった」という(宮本常一『忘れられた日本人』岩波書店)。

内山節『半市場経済 成長だけでない「共創社会」の時代』 株式会社KADOKAWA p123


現在、日常的に使われている「時計の時間」は西洋からもたらされたもので、正確に計算できる性質により、時給制のような、労働力を時間量として扱う基盤となった。そしてこれこそが、社会の工業化、資本主義化の推進の前提となったのだそう。

それまで「われわれ時間」で生きてきた当時の日本の人たちに、「時計の時間」を浸透させるのはなかなか大変だったらしい。政府が、子どもたちの学びの場から時間のあり方を変えていこうと、それまでの寺子屋を廃して、近代的な学校教育を導入したところ、それに反発する人々による学校の焼き討ちや叩き壊しなどの「学校破壊事件」が多発したそうだ。

焼き討ち?!叩き壊し?!
とても物騒で荒々しい行動だが、自分たちの信念をもって「時計の時間」に抗おうとする行動に、なんだか素敵だなあ……と思わずにはいられなかった。


森重雄によれば、地域の共同体で生きる民衆にとって近代的な学校とは、自分たちの生活世界を全否定し、人間を「生きた器械」に改造しようとする装置にほかならなかった(『モダンのアンスタンス』ハーベスト社)。

内山節『半市場経済 成長だけでない「共創社会」の時代』 株式会社KADOKAWA p125


「われわれ時間」と「時計の時間」。鰹節を削りながら考えた「ゆとり」についてのあれこれを深ぼるヒントとなりそうな概念たちだ。



満月の対話じかんの問いのタネ

先月から、新月と満月に対話のじかんをひらいている。満月は「月夜の読書会」の日。本から得た問いや、印象的だったフレーズから、対話をはじめていく。

日常と、本と、問いとを、もっと上手につなげたかったのだが、ちょっとガタゴトした感じもありつつ、問いのタネをここに置いてみるというかたちで、一旦着地しようと思う。


◎「われわれ時間」を感じたことはありますか?もしあるなら、それはどんなとき?その時どう感じましたか?

◎「時計の時間」を感じたことはありますか?もしあるなら、それはどんなとき?その時どう感じましたか?

◎どんな時間を生きたいですか?

◎日々の暮らしの中で、「ゆとり」を感じますか?もしも「ゆとり」があるとしたら、どんなふうに過ごしたい?


次の満月は、明日7月21日(日)。

この問いのタネから、どんな対話が広がっていくのか。問いに正解も不正解もないにしても、はたして対話を広げるきっかけになれるのかちょっぴり不安な気持ちと、ささやかだけれどまだ見ぬ時間を想いながら仕込んだ分のわくわくする気持ちと。

ともに語らうことで、どんな感覚や、思考や、言葉と出会えるか、楽しみです。


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