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しっかり区切る

なにかを始める前の儀式めいたことというか、ルーティンみたいなものは、だれにでもあるのではないか。

ジョギングの好きな人なら、走る前に着替えたり、ストレッチをするだろう。それらにはもちろん合理的な理由があり、着替えるのは汗をかくからで、ストレッチするのはケガをしないためだ。

しかし、そうした表向きの理由とは別に「さあ、走るぞ」というモードに心を持っていくための準備にもなっているはずである。そういう心のスイッチを入れるための儀式としての役割も兼ね備えている。

ジョギングにかぎらず、心の準備のためにルーティンを利用している人は多い。

スターバックスで勉強する人は、「人のいる場所の方が集中できる」とか、「手元にマンガやゲーム機がないほうが作業がはかどる」などといった表向きの理由とは別に、心にスイッチを入れるために利用している面もあるはずだ。スタバまで出かけていってコーヒーを注文し、席に着くという一連の流れで、さあ勉強するぞという状態に心を持っていく。

ごはんをたべるときもそうで、ちゃんと食べようと思えば、まずテーブルの上に箸をおく。お茶を入れる。お茶碗を出してごはんをよそう。それからおかずを持ってきて、手を合わせてからいただきます・・になるわけで、こういう一連の動作を経ることで、「ご飯を食べる」というモードのスイッチを入れている。

ここをおざなりにすると、ご飯がごはんでなくなり、エサか、単なる栄養補給になってしまう。忙しい人や一人暮らしをしている人にありがちなのだが、パソコンに向かって作業しながらカップラーメンをすするとか、ゲームをやりながらポテトチップスをかじってコーラを飲むとか、ぼくもいそがしいときには台所で立ったまま食事をすることが多かったのだが、こういうことをやっていると一見時間の節約に見えるのだが、長い目で見れば時間の豊かさを失っている。

しっかり区切る

時間の豊かさを味わうには、「しっかり区切る」という取り扱いがどうやら大事らしい。このあたりは空間と似ているかもしれない。ドーム球場にいくと毎回天井の高さに圧倒されるんだけど、よく考えてみたら、普通のグラウンドの方がよほど天井は高い。ドームの屋根はたかだか数百メートルしかないが、屋外のグラウンドなら天井は宇宙まで続いている。

でも、人間には青天井の高さを感じる能力がないので適当なところで区切ってやった方が高さを感じられる。屋根があるほうが「高い・・」と感じる。

時間についても同じことが言えて、永遠をダラダラと過ごすより、区切りをつけた方が時間を豊かに感じることができる。

映画はダラダラ見ない

ぼくは映画を大事にしているので、見る前にルーティンを行う。決してダラダラと見始めることはせず、始めと終わりの区切りをしっかりつける。

極端に言わせてもらうなら映画とテレビの違いは

区切りにある

と言ってもいいくらいだ。なので、好きな映画が放送されていてもテレビで見ることはない。どうしても「ながら見」になってしまうからで、ダラダラ見るくらいなら、見ないほうがましだと思っているが、これはもちろん、個人的な思い入れにすぎない。

さらに、テレビ(モニター)で映画を見る時にはかならず電気を消す(笑)。たとえ目に悪いといわれようとこれだけはゆずれず、電気を消せないなら映画は見ないというほどこだわっている。

そこまでこだわるなら「映画館に行かなければ邪道ではないか?」と言われてしまうと困るんだけど。小さなブラウン管で画質の悪いレンタルビデオを見ていたころはたしかに「映画館で見たい」とおもっていた。ただし、大画面化し、画質がフルHDになった今では自宅で見るのとミニシアターに行くのとそん色がなくなってしまったので、電気を消すのが大事な儀式になっている。

ロケット博士の映画

かつて「ロケット博士」と呼ばれた糸川英夫という人がいたのだが、日本の宇宙開発の父と呼ばれた人物で、広く知られているのは『逆転の発想』という自己啓発書だ。70年代にベストセラーになったんだけど、たしかその中で「映画を最初から終わりまで見るのは時間の無駄だ」と言っていたと思う。

どうしても見たい映画があった場合は、時間の空いたときに映画館に入って、途中の部分を見る。別な時に別の映画館に入って終わり部分を見て、さらに別な映画館で冒頭を見て、頭の中でつなげればいいという発想だった。1本の映画を見るのに3回くらい映画館に入ると書いてあった。

1970年代にこういう発想をする人はいなかったので、さぞ斬新だったのだろうが、ぼくにとっての映画はそれでは困るのである。糸川流では映画を見たことにはならない。ミルクセーキを飲む代わりに牛乳を飲んでから生卵を食べればいいと言っているのとおなじだ。

最近映画を見ていなかった

この1か月バタバタしていて一切映画を見ていなかった。かわりによくゲームをやっていたのだが、最近まで、なぜ映画から遠ざかっているのか自分でもわからなかった。

しかしどうやら上に書いてきたようなことらしいのだ。映画をきちんと見ようと思えば、そのまえに心を整えなければ見たことにならないという思い入れがあり、そして、この1か月は、そういう気分になれなかったのである。

かわりにゲームをやっていたのだが、ゲームをやるにあたっての儀式はなく、モニターとゲーム機の電源を入れれば即始められるのは、カップラーメンの便利さと似ている。もちろんゲームにはゲームの良さがあるんだけど。

スターマン/愛・宇宙はるかに

それでようやく昨日になって「Starman」(1984)という映画を見たんだけど、つまりは、ようやく「映画を見る」という心の状態にたどりつくことができたということである。

北米版で見たのだが、日本語版には『スターマン/愛・宇宙はるかに』というチョこっと恥ずかしめのタイトルがついている。しかし内容はいたってシンプルで、ストレートで、みょうに凝ったところもなく、ステキな純愛作品だ。これを見て不愉快になる人はいないだろうという、そういう万人向けの作品です。

『E.T.』(1982)の後に続くようなタイプの映画で、地球に落ちてきた宇宙人を宇宙に送り返してあげる話である。ただ、その宇宙人が死んだ夫そっくりなので次第に愛情が芽生えていくという「入れ替わり」のモチーフも入っている。

ひさしぶりに見ながらつくづく思ったのだが、こういう作品に時間を使ってじっくり見ている人と、こういうものに縁がなくファストフード的なコンテンツで済ませている人とでは、ちゃんとしたごはんとカップラーメンくらい、人生の豊かさに差が出るのではないか。

これは理屈ではなく実感であり、子どもの頃、ぼくはアメリカ映画に出会ったことで救われたからだ。ぼくにとっての映画は、教育程度も低く、ガラの悪い土地に生まれ育った人間の手元に降りてきたクモの糸のようなものだった。

当時のハリウッド映画は、豊かなアメリカからやってきた夢みたいな作品だった。だからこそ、クモの糸になったのだと思う。

アメリカ映画の豊かさ

たとえばこの作品の場合、主人公のジェニーと、死んだ夫そっくりの宇宙人がロードサイドのダイナー(食堂)に入って食事をするシーンがあるんだけど、トイレに入ると洗面台の横にペーパータオルが備え付けになっている。レバーを下げると1枚ずつ出てくるアレである。いまなら日本でもめずらしくもなんともないのだが、当時は1984年で、あんな小ぎれいなペーパータオルなど日本のどこにもなかった。

ぼくが高校時代に頻繁に通っていた安い映画館「松山グランド劇場」には水洗トイレすらなく、用を足した後でバケツからひしゃくで水を汲んで手を洗っていたのである。そんな時代にペーパータオルがさりげなく出てくるのがアメリカ映画だった。

そんなわけで『スターマン/愛・宇宙はるかに』は、だれにでもおすすめできるステキな作品なのでチャンスがあればぜひみていただきたいが、心に残っていてどうしても触れたい場面が2つある。

心に残るシーン

1つは、そのダイナーの駐車場で、鹿の死骸をみて宇宙人がショックを受けるシーン。撃ち殺されてトラックに結わえ付けられているのだが「なんで撃ち殺されなければならないのか」と。

その後、宇宙人はごはんをたべていても鹿が気になって仕方がなく、やがて駐車場に出ていって「力」を使って鹿を蘇生させてしまうんだけど、そのシーンを主人公ジェーンはダイナーの窓越しに見ている。彼女の視点からは、駐車場に出ていった宇宙人の背中が見えており、不思議な光を発している。やがて、彼の向こう側で死んでいたはずの鹿がうごきはじめると同時に、そのさらに向こう側の高速道路をトレーラーが横切るのである。

このトレーラーがいい。

映画の撮影なのだから、このトレーラーが偶然撮影シーンを横切ったはずはなく、鹿が生き返る演出と同時のタイミングでうしろを走らせた、いわば「エキストラのようなトレーラー」である。そして、このトレーラーが背後を横ぎらなければ、この画面は「空き地で鹿を蘇生させた宇宙人の背中」というだけの平板な画になってしまうところだった。

しかし、画面の向こう側をトレーラーが走ることで、高速道路脇のせわしない駐車場の奥行感が出て、そんなせわしない場所で、殺された鹿が蘇生したのだという鮮やかさが生まれる。この「映え」1つのためにトレーラーを走らせられるのがハリウッド映画の豊かさだった。

こうした1つ1つのものごとが、貧相な家庭に生まれ育ったぼくに豊かさを教えてくれたいわば「ペーパータオル」的なアメリカだ。

それからもう1つのシーンは、最後の最後で、宇宙人が去っていく間際に地球全体に向けて名セリフを残すのだが、もう長くなったのでこの辺りで終わりたい。心に残っているので、またいつか別な形で触れることもあるだろう。チャンスがあれば、ぜひみてください。


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