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エモくなりすぎたら一巻の終わり

いきなりだが、生きていくうえでいちばんだいじなことは、

ややふざけている

ということではないか。「余裕」と言い換えてもいいだろう。

駆け落ちとは?

昔の日本の小説を読むと、若い男女が駆け落ちしたり、心中したりするシーンがやたら出てくるんだけど、今の若い人はあまりやらないだろう。いいことだ。

「駆け落ち」、「心中」という言葉自体が死語になっているのかもしれないが、それもいいことだ。

ちなみに、駆け落ちとは「結婚したい男女が親の承諾を得られず失踪する」ことである。そして失踪すると既存の社会インフラから離れてしまう。

いまとちがって昔の社会ではインフラがたいへん限られていたので、「社会から離れる =死んだも同然」であり、かぎりなく自殺に近い行為とみなされていた。

今の時代の四国八十八か所めぐりは楽しみになっているが、昔は社会から離脱した人の死出の旅みたいなものだったのである。つまりかつては

社会からの離脱=死

だったわけで、これと愛をセットで注文すると「駆け落ち」というセットメニューができあがっていたわけである。

心中とは?

また、心中とは、

愛しているから一緒に死のう

ということである。ここで

愛していたらなぜ一緒に死なないといけないの?

と思った人がいるならば、それは健全な考え方だしぼくもそう思う。なんで「愛していたら一緒に死なないといけないのだろうか?」不思議ですよね。でも、かつては倫理的にものすごく窮屈な時代というのがあって、なにかあるとすぐ

死のう

という風になっていた。江戸時代の武士もなにかあったらすぐに

腹を切る

ということになりがちだったし、明治大正昭和平成にかけても、追い詰められたらすぐに

自殺しよう

と考える人が多かった。そして、自殺は、愛と相性がいいので、「愛と自殺」をセットで注文する人がとても多く、「心中」というセットメニューができあがっていたのである。

以上をまとめると、失踪と愛をセットで注文すると、駆け落ちというメニューになり、自殺と愛をセットで注文すると、心中というメニューになっていたということになる。

愛と死をみつめて

このように死と愛はたいへん相性がいいわけだが、なぜかというと愛は証明をもとめがちで、その究極の証明として、いちばんわかりやすいのが死だからである。

これは日本に限らない。元をたどれば西洋中世の騎士道ロマンスにまで行きつくのだが、「騎士が美しい貴婦人のために命をかけてドラゴンを退治する」というのがその典型である。

「手も触れたことのない貴婦人のために、なんで命を懸けてドラゴンを退治しないといけないの?」とぼくなんかすぐに思ってしまうのだが、そんなことをかんがえるのはダメな奴なのだ。カッコいいやつは、そこに疑問をもつことなくエモさ満々でドラゴン退治にでかけなければいけない。

この騎士道ロマンスの流儀は、いまも脈々と受け継がれている。スーパーマリオブラザーズでマリオがあんなに死にまくるのもさらわれたお姫様を助けるためだし、多くのRPGゲームも似たようなストーリーラインを持っており、騎士道ロマンスの流儀が受け継がれている。

何を言いたいかというと、死を美化し、愛と死をつなげる心理にはなかかな根深いものがあり、現代でも、脈々と受け継がれ、若い人の脳みそにインプットされ続けているということ。

そして、近代自由民主主義の土台になっているものも同じく「愛と死」の洗脳である。「大切なものを守って死ぬ」という風にすぐに死を美化して、自由と民主の旗の下でどれだけ多くの殺しが起きていることか。

ただし、いくら根深くてもしょせんは洗脳にすぎない。

脱洗脳のさまざまなアプローチ

このように「死を美化し、愛とつなげる」洗脳に真っ向うから対決しようとすると「死の意味をラディカルに変えていこう」という風になりがちで、宗教や精神世界系はそういうアプローチをとる。しかしすぐに原理主義に傾いて、人の死を屁とも思わない血みどろの抗争に発展してしまうので、この数千年間、まったくうまくいっていない。

これはキリスト教やイスラム教だけの問題ではない。日蓮主義も、オウム真理教も「ポア=好ましいこと」としている時点で同じ穴のむじななので、日本人にとっても他人事ではない。

したがって、彼らの失敗を土台にして「死を無効化する宗教はダメだ、やっぱり自由と民主と博愛がいいのだ」ということに傾きがちなのだが、自由と民主の名のもとに多くの殺しが起きているということはすでに書いたし、現在進行形で起こっていることでもある。

ややふざけつつじっくりいこう

そういうわけなので、冒頭に書いたように生きていくうえでいちばんだいじなことは、あまりエモくならないで

ややふざけている

ということだとぼくは考えているのである。

自由民主主義であろうと、イスラム教であろうと、アシュターコマンド愛と光のライトワーカーであろうと、エモくなりすぎたら一巻の終わりだ。

エモいと気持ちがいいのだが、ハート中心になりすぎればマインドが働かなくなる。そうすると短絡的に死を美化し、死で解決するということになりがちだが、死は何も解決しない。

かといって生きていればそれでいいというものでもないのだが、じゃあどうすればいいのか、と問われれば

そうやって絡的に答えを求めなさんな。ややふざけつつじっくり行きましょう

ということである。

あまり短絡的に答えを求めないで、ホラーゲームでもやってスッキリするのがいいだろう。ゲームは頭を働かせないと攻略できないのでエモいと前に進まない。またホラーは死を冒涜しているので、愛と死から脱洗脳される。そんなわけで「ホラーゲーム」というよほど共感の得られないマイナーな趣味を押しつけてこの記事は終わる。

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