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「本当の自信」とはどういうものか
「自分に自信がある」とか「自信がない」とか、「自信を持つにはどうすればいいか」といった話題はネット上では人気だが、ぼくの意見を書いてみたい。
こういうことを書くとウケるから書くのではなくて、最近ちょっとしたきっかけがあり、
なんでもない自分にゆるぎない自信を持つ
ということがこれからの世の中でとても大事なことになりそうな気がするので、書ける範囲のことを書いてみる。
まずは理想論から
理想論で言えば
生きているというだけで無限の自信にあふれている
みたいなのが真の自信だということになるのだろうが、これは犬や猫が自分の価値を疑わないようなことに近い。しかし、ざんねんながらぼくはそこまでの域に達していない。
とはいえ「他人との比較で得られた自信」ともちがう自信を持っている。
いわば「暫定的な本物の自信の持ち方」みたいなものかもしれないが、すくなくとも自分はこういう感じでやってきた。そして、他人との比較で得られる「仮の自信」と区別するために、ぼくが持っている自信のことをここではあえて「本当の自信」と呼ぶことにする。
人を見下していれば、いずれ人に見下される
そもそもなぜ人に自信が必要かというと、根拠の乏しい意見に流されてバカな行動をとらないためである。
そのために「自分の頭で考えましょう」みたいなことがよく言われるが、しっかり考えるためには、まずは、うろたえず、流されない余裕が必要であり、そのためには自信がいる。自信という土台がなければ、周囲に流されず、自分の頭で考えるなどという芸当はそもそもできない。
しかし、世間一般で自信と呼ばれているものは、地位とか経済力とか実績とか、他人との比較によって、他人を見下すことによって生まれた自信でしかなく、こういうものはあてにならないのだ
そういう自信がニセモノだということの説明は簡単で、「他人を見下す」ことによって自信を得ているということは「他人に見下されて自信を無くす」ことと裏表だからである。
他人を見下して自信を得ていれば、いずれはそういう目線によって自分を貶めることになる。つまり、やったことは返ってくるのである。
人を見下していれば、いずれ人に見下される
実際に見下されなくても、「この状況では他人に見下されても仕方がない(少なくとも自分なら見下すだろう)」という考えが頭に浮かんでしまえばそれから逃げることができなくなる。むずかしい言い方をするなら、そういう価値観を「内面化している」ということになる。
こういう自信はしょっちゅう揺れているし、世の中には上には上がいるのだからどこまでいっても自分に十分に満足できないし、上へ、上へ、という強迫観念から逃れることができない。
「誰に何んといわれようが揺らぐことはない」みたいなことにはならないのであって、「庶民にはオラオラ言っていてもイーロン・マスクにはぺこぺこする」みたいな、上に弱く下に強いチンケな態度にしかならない。
本当の自信とは「自分の世界」を持っていること
上に書いた通り、ぼくの自信は、犬や猫が自分の価値を疑わないような領域までは達していなくて、もっと「凡人仕様」の”本当の”自信の持ち方にすぎないのだが、それは自分の世界をしっかりと持つ、ということに尽きる。
なんでもかんでも自分の世界をもつことはできないので、なにか1つでいいのである。具体例を挙げてみよう。僕の場合のきっかけは映画だった。
自分はプロの評論家ではないし、映画に詳しいとか、ありとあらゆる映画を見ているとか、映画学校で専門的に学んだとか、そういうものはまるでない。
しかし、自信はしっかりとあり、たとえ世界的に有名な映画評論家や有名監督に「その見方はまちがっている」と言われても、びくともしない。なぜかといと、
じぶんにとってはこれでしっくりくる
という感じがゆるがないからだ。有名なあなたにとってはしっくりこないかもしれないが、ぼくにとってはこれがしっくりくるのはまちがない、という感覚がはっきりとあるからである。
そして、その「しっくりくる感覚」を支える土台の中に「世間がああいった」とか「エライ人がこう言った」などという情報が一切含まれていない。
自分の肉体感覚だけで
まちがいなく、しっくりきている
ので、他人に何をいわれてもそれが揺らがない。ヘンなたとえだけど、日本円を1円も持っていない人は、円が暴落しても痛くも痒くもないのと似たようなことだと言える。
だから、どの分野でもいいから他人の意見を一切耳に入れない状態で、
わたしの心と体にとってはこれがしっくりくる
ということをしっかりと感じることができればそれが「本当の自信」の第一歩になる。
たとえばアスリート
プロ野球の一軍の選手というのは、だいたいコーチのいうことを聞かないのだそうである。ある選手はその感覚を
自分にしっくりくるかどうかだ
と表現していた。どんないいアドバイスでも自分にしっくりこなければ受け入れないし、しっくりくれば受け入れる。
その「しっくり」は、子どもの頃からずーっとスポーツをやってきて、いつも体から聞こえてくる声に耳を澄ませてきたからわかるのだろう。
カラダとの対話を無数に重ねてきて、「自分の体がしっくりくるかどうかを自分以上にわかっている人間はほかにいない」という確信があるからこの自信が生まれるのだと思う。
ぼくのばあい
僕の映画も同じなのである。他人の意見は参考にはするけれど、最後の最後は
自分の感覚がよろこぶかどうか
だけで決めてきたし、それを若い頃から無数に繰り返してきたのでいまさら誰に何をいわれても揺るがない。どんなエライ人にどんな立派な理屈をいわれようと、
自分の感覚はそれではよろこばない
という確固とした肉体感覚があるので、微動だにしない。そしてこういう領域が1つでもあれば、それをすこしずつ他の分野にひろげて自信も少しずつ大きくなってくる。
大谷選手のことはわからない
逆に言えばなんでもかんでも、自信があるということにはならない。
たとえば、ぼくは「大谷翔平選手がすごい」とおもうけど、自分の目で見て「すごい」と感じているわけではなくて、ホームランをたくさん打っているとか、評論家がみんな「すごい」と言っているから、という他人の意見に寄りかかって言っているだけだ。
なので、もし仮に(仮によ)落合博満さんが、YouTubeで「実は大谷はすごくないのだ。その理由はかくかくしかじか・・」とうまいこと説明してくれれば「そうかもしれない」とかんたんに揺らぐ。
なんでもかんでも自分の目で見るのは現実的ではないので、これはしかたがないわけで、たいていのことは他人の意見を受け入れてやっていけばいい。
このロレックスはすばらしいのだと時計評論家に言われば
へえ、そうなんだ
と思うし、このフェラーリは最高の出来栄えだと自動車評論家に言われても
なるほどそうなんだ
と思うのである。ただし、なにか1つでいいので、
誰が何と言おうと自分にしっくりくるものは自分でわかる
というものをもっていればそれが本当の自信の一歩目になるという話です。
それを広げていく
たとえば、これまで世界中のたくさんの料理を食べてきて、自分の舌がどういう味でよろこぶかを自分の舌と対話してはっきりとわかっている人がいたとする。その人は有名レストランのおいしい料理に対して
自分にはまずかった
とはっきりわかるだろう。「この料理の深さがわからないのか」と有名シェフにいくら言われても、自分の舌がこの味では喜ばないという事実は消えないのだから、まずいものをウマいとは言えない。
こういうものが何か一つあれば自信の出発点になる。この感じをすこしずつ他の分野に広げていって、たとえば僕なら、まず小説にひろげ、次に音楽にひろげ、やがて人物の観察や、世間の動き方にまでひろげていった先に、他人との比較とは無縁な自信というものが生まれる。
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