他国の人の考え方を理解するのはなかなかむずかしい

学生のころ、旧ソビエトの映画監督 アンドレイ・タルコフスキーの作品に熱中していた時期がある。

数十分におよぶ長まわしと、映像詩的な作風でしられる作家だ。

『ノスタルジア』をはじめて見たときはまさに腰をぬかした。80-90年代にそういう経験をした人はけっこういたと思う。

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いまでももちろんスキなのだが、当時にくらべれば、ややわりびいて評価している。

その後、さまざまなロシア監督の作品を見ていくにつれて、当時のぼくをおどろかせた感覚はタルコフスキー独自というより、おおくのロシア映画が共有しているものだということがわかってきたからだ。

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おなじことは逆の場合もあてはまる。

『東京物語』、『晩春』などでしられる小津安二郎監督の名声は世界的にとどろいている。

それはもちろん小津作品がきわめてすぐれているからだ。

ただし、日本の小津ファンが、「溝口健二でも成瀬巳喜男でもなく小津がスキ」と感じているのと同じような感覚で、世界が小津監督を見ているとは思えない。

ぼくがタルコフスキーの中にロシア的なものを見ていたように、海外のファンは、小津の中に日本的な感覚を見ていると思う。

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これは川端康成で考えるとわかりやすい。『雪国』の中で、で主人公が鉄瓶の音に耳を傾けるシーンがある。

こんど帰ったらもうかりそめにこの温泉へは来れないだろうという気がして、島村は冬の季節が近づく火鉢によりかかっていると、宿の主人が特に出してくれた京出来の古い鉄瓶で、やわらかい松風の音がしていた。

欧米の人にとって湯がわく音はたんなるノイズだ。そこに「松風の音」を聞くという感覚にはかなりのカルチャーショックを受けたはずで、そうした面がノーベル賞受賞に少なからず影響したと思う。

ただし、鉄瓶の音に風流を見出すというスタイルは、川端の個人技というより日本古来の感覚に由来する。

もちろん、最終的には彼の表現力がモノを言ったのはまちがいない。

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ハナシは変わるが、いま、アメリカでさかんにデモが起こっている様子をネット上で見る。ただし、上に書いたのと似たような意味で、他国の人の考え方や感じ方を理解するのはなかなかむずかしい。

日本社会では同調圧力ひとつで片付くものごとが、一神教とのかかわりあいを視野に入れなければ理解できない場合もけっこうありそうだ。

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