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「役に立てる」気持ちなしで、コンテンツを消費してはいけない

今日の話はかなり絶対です。「自分の役に立てる気持ちなしで、デジタルコンテンツを消費してはいけません。

ぼくの意見というより、かぎりなく真理にちかいはずで、

ダイオキシンの出る物質を焼却してはいけない

レベルである。やや大きく出てしまったけど、こんな書き方をすることはめったにないので許してほしい。

さて、なぜ「利用する気持ちなしで、なにかを消費してはいけない」のか。その理由をなるべくサクッと1000字くらいで書こうと思ったけど3000字近くなってしまった・・。とりあえず削るけど、どこまで削れるかわからない。

ぼくが、この感覚を言葉で説明できるようになるまでに、たぶん20年以上かかっている。つまりインターネットが普及して、デジタルコンテンツに接するようになってからずーっとである

つい最近まで、「たんなる違和感」だったんだけど、このひと月でなんとか言語化できそうになった。

この話を広げて考えればどんな消費にでも(食べ物にでも)当てはまるんだけど、「自分の役に立てるための分析」をしないでコンテンツを消費するクセがつくと、知らず知らずに生活の豊かさを食われてしまうので、麻薬と変わらないのである。

さきに食べ物の話をしよう。こどもに人気のない品ほど栄養価が高くて、こどもが食べたがるもの(マックなど)ほど体にわるいのは、あなたも異論ないだろう。

たとえば、ニンジン嫌いの子どもは

なんでニンジン食わなきゃいけないんだ?

と思う。しかし、そういうギモンを簡単に抱かせるような食品は体にいいので、だまって食ってりゃいいのである。いずれ丈夫な体を作ってくれる。

この話をコンテンツに置き換えると、数学の教科書などがそうだ。数学の教科書をながめていると

なんでこんなことをやらなくちゃらならないんだ?

と思うはずだ。しかしこういうものは脳の発育に役立つので、だまってやってりゃいいのである。

逆に、マックのフライドポテトを食べている人は

なんでこんなもの食べなくちゃいけないの?

とは思わない。そして、食べれば食べるほど体には悪い(たまにはよし)。

コンテンツも同じで、おもしろいものほどドラッグ度が増すわけで、たとえば、ものすごくおもしろいオンラインゲームをやっている人は

なんでこんなことやらなきゃいけないの?

などとは1秒たりとも思わない。それくらいおいしくて「なぜ」を考える時間を与えてくれない。

ドラッグと同じである。キメているだけで気持ちいいので、

なんでこんなものを打ってるんだ?

などという疑問を抱くことがない(想像で語っています)。依存性物質は、よほど追い詰められてからでないと「止めよう」とは思わないのだ。

おもしろいコンテンツをどんどん摂取しているとこれと同じ状態におちいる。体を壊すことはないけど、「搾取されてしまう」。つまり「生命力を吸い取られる」のだ。

ぼくは、前々から不思議だった。

なぜ、映画を見まくっても小説を読みまくっても平気なのに、あまりにおもしろいマンガやゲームに出会うと、

アブない!

と感じて、反射的に身を引いてしまうのだろうか?と。べつにマンガより映画が高級だなどと思っていない。ちなみに昨日から、寝る前に『007 ムーンレイカー』という映画を見なおしているんだけど、

これよりバカバカしいマンガもゲームもそうそうない

のである。しかし、警戒感がわかない。

だけどさっき、ものすごくおもしろいマンガをネットで読み、先を読むためにアプリをダウンロードした段階で

あぶない!

と感じてしまった。そのマンガはものすごくよくできている上に、コロナ後の社会のあり方まで描きこまれていて『007 ムーンレイカー』の500倍は役に立つはずだ(当社比)。

にもかかわらず警戒感を抱いたのは、このまま読みすすめていったら人生を豊かにする以上の時間を奪われて、トータルでは生命力を吸い取られる。つまり廃人になる、という皮膚感覚があるからだ。

では、なぜおバカ映画と呼ばれる『007 ムーンレイカー』でそう感じないのかというと、たぶんかつて「小説や映画を分析することを仕事にしていた」からである。

その習慣が抜けないので、アクション映画を見てスッキリしているときですら、かならず「考えるヒント」を得ている。もっと低俗なC級ホラー映画からでも、乾いたぞうきんを絞るようにして考えるヒントをとりだして

「消費時間」 「人生の豊かさ」

にできる自信があるのだ。だから安心してみていられる。

ちなみにマンガがダメだといっているのではありませんよ。マンガを読んで生きる希望を得て、自殺を思いとどまる人だっている。その人にしてみれば、残りの人生をマンガに捧げても余りあるだろう。

また、マンガを描いたり、批評して食っている人は、どれだけマンガを読んでも「考える自分」から離れることはない。もっと面白いマンガを描く手がかりをつかみ、あるいは的確な批評で人をうならせる着想を得て、そのおもしろさを「自分の豊かさ」に還元できる。

「消費時間」 「人生の豊かさ」

になるはずだ。しかし、ぼくが、あのマンガ・サイトにこれ以上滞在すると中毒に陥って

「消費時間」 「人生の豊かさ」

になりそうなのである。最近の高度なマンガの「中毒性」への免疫力が低いので、人生を豊かにするヒントを得る前に中毒に陥るだろう。1か月くらいまえにYouTubeでおもしろいお笑い芸人さんの動画を次々に見ていたときにも同じことを感じた。

ゲームも同じで、ぼくがオンラインゲームに近づかないのは

「消費時間」 「人生の豊かさ」

になりそうだからである。

「ゲームをしていないとイライラする。仕事を犠牲にしてでも、日常生活がはたんしてでもゲーム空間にいないとイライラする」となった時点で、

「消費時間」 「人生の豊かさ」

の図式が成り立つ。これが依存症だ。

あなたがYouTuberとして生計を立てている人なら、何百時間見てもいい。おもしろいものを見れば見るほど「やられた!」と思って悔しいし、分析してしまうし、分析するほど自分のチャンネルのクオリティは上がる。どこまでいっても考える力は上がっていき、

「消費時間」 「人生の豊かさ」

にできる。そうやっているうちに、他の領域でも戦える力がついていくはずである。ぼくはそうではないので「まずい(汗)」とおもっちゃうんだよな。

さてまとめますが、いまニンジンもピーマンも決して安くはないけど、デジタルコンテンツはタダ同然の時代がきた。あまりに安価なので「体が発育する前に安いフライドポテトを食べまくった子供」みたいになりやすい。考える力をつける前に刺激依存に陥るのだ。

これはネットポルノの洪水に似ている。強い刺激が殺到して、考える時間を与えない。。

ぼくが映画を見始めたころは1か月に1本しか見ることができなかったので、スチール写真を見て想像したり、評論家の文章を読んで考えている時間のほうが長かった。そのとき身に着けた考える力と感性は、人生を豊かにしてくれている。

というわけで、ネットポルノをやめられない人には「作る側に回りましょう」と言いたい。仕事にすれば「なぜウチのサイトでコーフンしない人がこのサイトではコーフンするのか」を徹底的に考えざるをえないし、そうやって徹底的に考えた時間は、その後どんな局面でもあなたを助けてくれるので

「消費時間」< 「人生の豊かさ」

にできるのだ。


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