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ムダなことはやめよう―「9歳の壁」について。

「壁」ということばはいろんな意味で使われるけど、古くはエルサレムの嘆きの壁が有名だ。多くのユダヤ教徒が祈りをささげているそうで、そういう思いを受け止めるのが壁である。

ベルリンにもかつて壁が存在したが、あれは昨今流行りの「分断」というキーワードにつながる壁だった。トランプの壁も同じである。

一方、日本では「バカの壁」という本がベストセラーになった。この場合の壁とは障害物であり、その乗り越えがたさから「壁」という風に表現された。

「バカの柵」とか「バカの囲い」とか「バカのハードル」ならば乗り越えられそうだが、壁となると絶望感がただよう。

9歳の壁

最近、「9歳の壁」という言葉を知った。子育てをやったことのある人ならなじみの概念かもしれないが、ぼくは子育てに縁がないので、最近になって偶然知った。

「10歳の壁」と呼ばれることもあるし「小4の壁」と呼ばれることもあるらしいが、いずれにせよ高学年への入り口であり、脳の発達における1つの節目なのだそうである。

小学校3~4年生くらいから学習内容がより抽象的になり、言語的要素が強くなるので、そこでつまづく子どもとそうでない子どもの差がつきやすい。

また、自分を客観視できるようにもなるので、自分と他人を比較し、劣等感が生まれたりもするらしい。

壁をいかに乗り越えるか

ネットには、9歳の壁についてのたくさんの記事があるけど、そのほぼすべてが

いかにして9歳の壁を突破するか

というハウツーに終始しており、子どもが壁にぶつかって困っている親たちへの処方箋になっている。

もちろんそれはもっともなことであり、9歳の壁にぶつかる子どもたちに、どうやって壁を越えさせてあげるかが一番大事なことであるのは言うまでもない。

ただし、9歳の壁にぶちあたって乗り越えられなかった人がどういう大人になって、どういう人生を送るのかがどこにも書かれていない。

『誰が国語力を殺すのか』

ところで著名なルポライターの石井光太氏が9歳の壁に関する本を出していることを知った。

本自体には目を通していないんだけど、石井氏はこの本に関するネット記事を3回にわたって連載しているので、概要は伝わる。

この記事で、石井氏はこういう例を挙げている。

小学4年生の教科書に載っている戦争文学に『一つの花』というのがあるのだそうで、こういう話である。

戦中の食糧不足の中、お腹を空かせた幼い娘は何度も食べ物をねだるのが癖になっていました。ねだれば、もらえると思ったからです。父親が出征する日も、彼女は何度もおにぎりをねだりました。父親はおにぎりをすべて渡した後、別れの直前に駅のゴミ捨て場のようなところに咲いていたコスモスを摘んで手渡して戦争に行きました。戦後、父親は帰ってきませんでした。しかし、家の庭にはコスモスの花が咲き乱れていました――。

一つの花

そして先生が子どもたちに

「なぜ戦争に行く前に、父親は娘にコスモスを渡したのか」と尋ねたところ、「娘が騒いだから罰として与えた」とか「お金儲けのため」といった答えが続出したそうです。

ちょっと長くなるが続きを引用しよう。

では、なぜ、そう考えられたのでしょう。それは、他者の胸の内を言葉によって想像し、状況を適切に捉える力が弱いためです。(中略)行間を読み取る力がないので、プログラミング的な思考で、「ゴミ捨て場に咲く花を渡す=罰」となる。

その先生は、これは単なる誤読ではないと主張されていました。誤読以前に、言葉をベースにした情緒力、想像力、論理的思考からなる国語力が不足しているから起こる解釈なのだ、と。

さらに石井氏は続ける。

現在、小説の世界では恋愛文学の衰退が著しい状態にあります。文芸編集者によれば「他者の心の微妙な機微を感じ取ることが苦手な読者が増えていることが一因」なのだとか。

繰り返すが、ぼくは9歳の壁を「どうやって乗り越えればいいのか」をしりたいのではなく、乗り越えないまま大人になるとどうなるのか、を知りたい。

そして、石井氏の見方では、9歳の壁をのりこえないまま大人になると恋愛小説を理解できなくなる、ということになるだろう。

ツイートが誤解される確率は9割

以前にも書いたことがあるけど、日本人で200字程度の文章の大意をつかむことのできる人は、10人に1人なのだそうである。他の欧米諸国では正解率4%の国もあるのでマシな方なのだが、それでも140字のツイートが誤読される確率は9割近いということになる。

SNSでの炎上の大部分が誤解や拡大解釈にもとづいていることを思えば、これには納得がいく。SNSでつまらなさわぎが起こりやすいことの背景には「9歳の壁」を乗り越えられなかった人々の存在があるのではないかというのが、ぼくの感触だ。

身の回りの困った人々

現在、ぼくは政治情勢や社会思想に興味を抱く人たちとつるむことが増えたんだけど、そうした人々の中には

他人に対する共感力や想像力に欠け、自分を客観視できず、日本語がおかしい

人がだいたい10人に1人くらいいるのでやや困っている。そして最近、この手の人たちはどうやら9歳の壁を乗り越えることができず、そのまま大人になったのではないかと思うようになった。

9歳で決まってしまったのなら、大人になってからつける薬はないので、なんとかしようと思うほうが無理だ。

ちなみに、もともとは小説や映画の好きな人たちとつるむことが多かったのだが、その手の人たちの中には「心の微妙な機微を感じ取ることが苦手」などという人はいなかった。

いまでもぼくは小難しい映画が好きなのだが(バカバカしい映画も好きです)、以上のように考えるなら、小難しい映画を好むメリットは確実にある。それは、

9歳の壁を乗り越えていない人とぶつかるおそれがない

ということだ。おなじことはnoteにも言えて、ここまでの2000文字ちょっとの文章をさらっと読める人に「200文字を理解できない人」はいない。なので、noteも「9歳の壁の向こうの人」とぶつからなくて済む平和の国だ。

noteも平和の国だし、川端康成や芥川龍之介も平和の国だし、小津安二郎やゴダールも平和の国なので、あまりその外側に出ていってヘンな人とぶつかってストレスをためるのはやめよう、と最近思うようになっている。

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