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だれが一番オトナか?

戦前の旧制小学校は今の小・中学校みたいな位置にあり、旧制中学はいまでいうところの高等学校にあたる。だがいまとはちがって中学に行ける人はほんのわずかであり、しかも生まれた家で決まっていた。ぼくが当時の日本に生まれていたらまず行けなかった。

井上靖の自伝小説『しろばんば』では、主人公の洪作が旧制小学校を卒業して中学受験へ向かうまでが描かれている。かれはド田舎の村でただひとり中学校へ進める身分に生まれ、ずーっと成績は1番だ。井上氏はいずれノーベル賞候補になるくらいだから頭もよかったのだろう。

同学年には、主人公の洪作のほかに、ガキ大将の幸男、大工の亀男、酒屋の芳衛の3人がいるが、みな中学に進める身分ではなく成績も悪い。

なかでも酒屋の芳衛は一年ほど前から村の子どもとは遊ばなくなっており、教師から話しかけられてもはっきり答えないので村人からアホだと思われている。

―酒屋の芳衛はぐずで困りもんだ。
―あれじゃ酒屋の跡継ぎはできめえ。酒が腐っちまう

しかし、じつはこの芳衛がいちばんのオトナだということが最後の最後にわかる。

洪作が村を出る前夜に4人でつれだって共同浴場へ向かうところだ。「最後に4人で風呂に行こう」と言いに来るのもこいつだが、風呂に行く途中で、芳衛は主人公にこう言ってのけるのである。

酒屋はもっと小規模にやれば、なかなかいい商売だ。いまのように大きくやっていると、人手ばかりたくさんかかって、儲けにならない

このように「部落の大人たちに聞かせたら、一人残らず肝を潰してしまうことだろう」とおもわれるようなことをぼそっと言う。おそらく自分の将来を真剣に考えるあまり、学校教師の言葉など眼中になかったのだろう。

二番目にオトナなのは大工の息子の亀男で、こいつもしばらくまえからガキどもとは遊ばなくなって家の手伝いをしている。洪作に対しても

「今度来るときは、中学生になってくるんずら。おらっちを見ても口をきかんかもしれんな」

などと言い、洪作が否定すると「人間とはえてしてそうしたもんだ」などと言うのである。亀雄も親を継いで大工になると決めている。

この2人は町の中学へ進む洪作を嫉妬していない。社会の現実を受け入れ、すでに自分の足で歩き始めている。

一番のガキはじつはリーダー面している幸男である。かれは主人公に嫉妬し

「俺だって、もう二、三年したらこんなところは捨てるぞ。こんなところにいたら村長になるのがやっとだ。俺は町へ出て、雑貨屋をやって、成功して、小僧を五、六人使うようになるんだ」

などと野望はすでに村長を越えているが、途中で女湯に入って行って女性連中につまみだされ、のこりの3人から「わりゃあ、まだ子供だな」と言われている。今の世の中で「成功者」ともてはやされるのは、こういうタイプである。気が強くてウブで上昇志向の強いアメリカンなタイプだ。

さて主人公の洪作は感受性が豊かで、成績もいいので立派に見えてしまいがちだが、じっさいは甘えんぼで未熟な少年でしかない。感受性が豊かであることと、心が成熟していることとはちがう。

だが本作が出版された昭和35年に井上氏はすでに53歳。多感で未成熟だった13歳の自分の未熟さを見つめ、酒屋の息子を大人としてえがく。少年 洪作が「作家 井上靖」になるまでにはさぞかしいろんなことがあったのだろう。

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