すべては色、金、名誉が原因
精神科医の人の書いたおもしろい記事があったので、今日はそれをネタにしていみたい。これです。
実例として取り上げられている統合失調症の患者「ある40代の英語教師」の描写が興味深かった。
すべては色、金、名誉が原因
著者の意見をかみくだいてまとめれば、人が犯罪に走る理由は、基本的に
のいずれかなのだそうだ。たとえば、
などなど。前者はカネで、後者はイロが原因だ。
色、金、名誉ではない
よく裁判で「精神鑑定に持ち込まれる」という展開があるけど、鑑定で無罪になるかどうかの境目も、「色、金、名誉」で動機を説明できるかどうかにかかっているのだそうで、動機が「色、金、名誉」にもとづいていた場合は、一般人から見て
となるので、精神が病んでいるとはみなされない=法的責任を問える状態にある、ということになる。
一方で、動機が「色、金、名誉」にもとづいていない場合、たとえば、
この場合は、動機があきらかに「色、金、名誉」ではないので、一般人からすると
ということになってしまって、法的責任を問えない。
じつは色、金、名誉である
そのうえで、統合失調症の発病の原因が、じつは「色、金、名誉」にあるとする学派もあるのだそうだ。「生活臨床」というアプローチである。
最終的な統合失調症そのものは常人に理解しがたい領域なんだけど、もともとの入口は「色、金、名誉」によるつまづきなので、一般人にも理解できるよね、というところを糸口にして、治療に結び付けていくのがこの流派なのだそうである。
これだけだとよくわからないのだが、実例を見るとじつによくわかる。そこで「ある40代の英語教師」なのである。
名誉欲で発病した人
仮にAさんとしておこう。彼の発病のトリガーは名誉欲なのである。
若くして両親を亡くしているが、「極端な負けず嫌い」で、成績優秀。大学も東大を目指すが、立て続けに2回受験に失敗したことをきっかけに
その後、寛解して地元の国立大学に入るのだが、
在学中に2度の入退院を繰り返す。
その後卒業して教員採用試験に合格し、山間部の分校に就職が決まるのだが「本人は都会の学校に就職するのを希望していたため落胆」し、職場では尊大で配慮に欠ける態度からしばしばトラブルになり、それが契機で被害妄想が起き、分校勤務の間に8回の入退院を繰り返している。
転機が訪れる
しかし、そこで2つの転機が訪れる。
である。「出世しても死んだらおしまいだ」と、「生き方をマイホーム主義に変え」、それまでとは打って変わった態度をみせるようになったそうで、野心がおとろえたことで、周囲との関係も良好になり、そのご10年にわたって病状は安定する。このあたりの事情も一般人と変わりない。
田舎英語だからわからない
ところが、若い英国人女性が副教員として赴任したことで病気が再発するのである。
Aさんは早起きして英会話テープを聴いたりし始めたそうだが、そのうちに生活が乱れてきて、
緊急入院となったそうである。
ぼくはこの最後のくだりがいちばんおもしろかった。バイトで高校教師をやり、オーストリア人やフィリピン人の副教員と仕事をしていたので、様子がなんとなくわかる。
英語ノーノー
高校の英語の先生多くは英語を使えない。なので、外国人の副教員は、職員室では腫物のように扱われ、存在していないかのように放置される。
まともな日本人高校英語教師にすれば、外国人スタッフは触らぬ神に祟りなしなのである。一昔前の日本人の多くが、外国人に話しかけられると
といって逃げ回っていたのと同じだ。日本社会の縮図みたいでぼくは見ていられず、よくかれらとおしゃべりしていた。
しかし、Aさんはちがう。本格的なキングズイングリッシュをあやつる若い英国人女性にむかって
と言ってのけている。これは一見すると普通の日本人が持っていない「強さ」のように見えるのがおもしろい。
著者の兼本先生によれば、Aさんの場合は、この自尊心の強さが発病を抑えるつっかい棒として彼を支えているのだそうで、このつっかい棒が倒れてしまうと発病する。
なので、ここからはぼくの考えなのだが、Aさんが英国人の女性に対して「田舎英語だからわからない」などと言えてしまうのは、かれが強いのではなく、
という。崖っぷちまで追い詰められているからこそトンデモな発言をできると考えれば人一倍弱いのではないか。
英語で飯を食っているくせに
といって逃げ回って平気で給料をもらえる他の教師の方がよほど図太い。
ここからいっきに一般化するのは軽はずみかもしれないが、統合失調症患者にかぎらず、「名誉を得るためにはなんでもする」とか、「お金を稼ぐためは何でもする」というガッツいた人は、それが自我を支えるつっかい棒になっているからそこまでやれるのかもしれない。
そのつっかいぼうが折れてしまっても発病まで行かないのだけど、ものすごく落胆するので、それを恐れるあまりにものすごくがんばる。
つまり、ものすごくがんばれる人というのは、案外、繊細な自我を支えるのに必死になっている人なのではないか、というのが今日感じたことだ。
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