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すべての感覚を遮断してもこころのいたみは残る

いま近所のスーパーでしょっちゅう出会うホームレスの男性がいる。ホームレスというのはぼくがそう思っているだけだがたぶんそうだろう。

見た目だけではウチの父親(85)よりも高齢に見えるが顔を見たことがないので細かいことはわからない。いつもアタマから顔の両側にタオルをたらしており、カーテンで顔を隠しているような状態なのでわからないのだ。今日はこの「状態」について書きたい。

はずかしさやツラさや生きづらさの正体ってなんなんだろう?それは「こころのいたみ」ではないかと見ていて思うのである。この男性は顔の両側にタオルのカーテンを下ろしているが体は丸見えだ。買い物客や店員から「ホームレスだな」とわかるくらいに丸見えである。いつもタオルをかぶっているのでかえって目立つくらいであり、ぼくが最初に気づいたのもタオルからだった。

しかし、タオルをかぶることで人の目は遮断できる。実際はホームレスと見られているとしても「ホームレスと見られている」という視線をさえぎることができれば、こころのいたみを感じないで済む。「知らぬが仏」を意図的に作り出しているのが、あのタオルのカーテンである。タオルによる引きこもりだ。

人に意識されているという感覚を遮断すればこころのいたみをかんじなくてすむ。はたしてそうなのだろうか。外部からの感覚を遮断すれば、こころのいたみは消えるのだろうか?あるていどはそうだろうが、すべての感覚を遮断してもなお、こころのいたみは残るのではないか。

それで思い出したのが、『アルタード・ステーツ』('80)という映画だ。ぼくも中学時代に見に行ったんだけど、これは「アイソレーションタンク」とよばれる機械をめぐるSF映画である。

アイソレーションタンクとは体液と同じくらいの比重の液体で満たされた巨大なタンクで、体験者はその中に頭部だけを浮かして寝そべる。視覚、聴覚、触覚など外部からの刺激がすべて遮断(アイソレーション)された状態の中で胎児にもどるのである。

まあこういう感じになるわけだ。

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うろ覚えなんだけど、映画の中では主人公の学者がドラッグを服用してこのタンクに入り、先祖返りしてしまう。タンクから出てきたら類人猿になってるんだけど「んなあほな」である。

予告編です↓

ぼくもじつは2007年に東京でこのタンクに入ったことがある。体の重みも感じないし、視覚もない。音も入ってこない。それでどうだったのかというと、ぼんやりと浮いていただけで、すくなくとも類人猿にもどりはしなかった。

ただし外部刺激がなくなってもこころがなくなるわけではないという感触はえられた。視覚をさえぎれば「見られている」といういたみをかんじることはないが、それでもいたみを感じるこころは残る。夢の中だっていたみを感じることはある。

いたみを感じるこころは生まれつき備わっているのだろう。人は生まれた後でそのこころをどんどんこじらせていき、やがて「正義」などというご託宣にしたがって平気でひどいことをやるようになる。しかし、ほんとうに平気なわけではなくて「平気だ」と思い込もうとしているだけである。こころはいたんでいるのだが、じぶんをだませる能力も備わっているので、両者の葛藤は生涯続く。タオルをかぶった男性にもこころのいたみは残っているだろうし、ぼくもその男性を見ているとこころがいたむが、ただ見ているだけである。

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