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井上氏以上で、林氏以下

直感というのは、まったくあてにならない。

そうは知りつつも、直感に打たれた経験はだれにでもあるのではないか。

「この人こそ運命の人だ!」という直感に打たれて電撃入籍し、数年後にドロ沼の離婚劇などという話はよく聞く。

オウム真理教の麻原彰晃は世界を救うといっていたわけだけど、それを信じてついていき、サリンの袋に穴をあけた人たちも、やはり直感に打たれて穴をあけたのだろうか。

元幹部の井上嘉浩さん(元死刑囚)の最後の言葉は

こんなことになるとは思わなかった

だったそうだ。そりゃあそうだ。世界を救うつもりが、死刑判決である。
電撃入籍からドロ沼離婚みたいなものだ。

ぼくは井上氏とは1つちがいなので、あの当時の麻原を見てそういう感じに打たれたのはわからないでもない。

ぼくも、バカにする気持ちが半分で、衝撃が半分だったような覚えがある。まじめな同級生の間ではオウムの名前がささやかれていた。

さいわい直感には打たれなかった。
「もしこいつの言っていることが本当だったらどうしよう」という疑いを持ったので、だまって観察していた。

単なるペテン師なのか、それとも何かを持っているのか。

これを読んでいる人の中にも似たようなタイプがいるかもしれないが、ぼくも観察力だけがとりえなので、けっこう冷酷に観察する。べらべらおしゃべりなようだけど、他の人が見ていないところをがっつりと見ている・・つもりだ。

しかしジャーナリストの青沼陽一郎さんってよく見てるよなあ。この人は何千もの刑事裁判を傍聴してきたのだそうだが、こういう人の目から見ると、同じオウムの死刑囚でも、ひとりひとりの人間性が丸裸になる。

すでに執行された人をここで糾弾するつもりはないんだけど、青沼さんの目から見れば8人を殺した林泰男氏は人間として本物で、実行犯ではなかった井上嘉浩氏はニセモノだったということになる。

井上嘉浩元死刑囚は、青沼さんの目から見ると「嫌なヤツ」だったそうだ。

ぼくが感じたところの井上の本質を、もっと早くに、もっと鋭敏に見抜いていたのは、事件で家族の命を奪われた遺族だった。

井上氏は、遺族のため、罪の償いのために、率先して麻原糾弾をやっていた人である。それはウソではなかっただろう。しかし、遺族の目にはそうは見えなかった。本人にすらもわからない本当のところが遺族の目にはばれるらしいのだ。

遺族たちは口々に、被告人からは反省の情が感じられないと言った。

  林郁夫の法廷での態度に、極刑を望まないとした遺族でさえ、井上には厳罰を望むと言った。

  どうやら、そのことが井上には理解できなかったようだった。

これを読んでいると、遺族というのは、常人とは異なる嗅覚があるように思えてくる。

井上氏と同世代で、サリン事件で父親を失った遺族女性が出廷したことがあるそうだ。その女性に対して

井上はいつものように身を乗り出し、一言一言に頷いては、これ見よがしに大粒の涙を零して泣いてみせていた。その姿が、ぼくには、どこか気取っているように見えて仕方がなかった。

そんな姿を横目で認めた彼女は、不意に冷めたように、井上と同じ涙を流すことをやめて言った。

「泣きたい時に泣ける奴はいいよねぇ……。泣きたい時に泣けないから、みんな苦しいんじゃない。あんたが高校の時に書いた詩に、『毎朝、満員電車に乗って行く、あんな疲れた顔のオヤジにはなりたくない』ってあったよね。あんたみたいに、泣きたい時に泣いて、言いたいこと言ってれば、あんな顔しなくたって済むんじゃないの?」
(中略)
さらに泣きながら続ける。
「高校の時に凄いこと考えてるよね。世の中は荒廃している? 立派だよね。私なんて考えてもみなかったよ。思い付きもしなかったよ。自由がなくて、理想がなくて、人類に愛がなくなった? うちは普通の家庭だったんだよ! 理想なんてなくたって、幸せだったんだよ!」

ところで、あくまでぼくの感じだけど、弁護するわけじゃないんだけど、井上氏は悪い奴っていうよりはナルシストだったんじゃないかな。本人に悪気がないのに周囲にうざがられるナルシストっているのである。

さて、一方で、8人を殺害した林泰男氏に対しては、裁判長までが尊敬を念を見せていたそうだ。林氏に対する裁判長の評価はこうだ。

「およそ師を誤るほど不幸なことはなく、この意味において、被告人もまた、不幸かつ不運であったと言える」

被告人を悪く語らない判決というのも珍しい。むしろ、褒めている。

それでも、林泰男は死刑だった。
最後に主文を聞かされた林泰男は、正面の法壇の上の裁判長を見上げ、姿勢を正して何度も深く頭を下げていた。これを見た裁判長も、目を見合わせては、繰り返し深く頭を下げて答えていた。
そこに、不思議な信頼関係があるように見えたのは、ぼくだけだったろうか。

同じ事件で同じ判決を受けた二人だが、この差はとても大きい。

ぼく自身は、自分が「井上氏以上で、林氏以下」の人間に思えてならない。そして、どちらかといえば井上氏に近い。空疎な人間だ。

林氏も、井上氏も、「うちは普通の家庭だったんだよ! 理想なんてなくたって、幸せだったんだ」という人の幸せを壊してまで、世を憂い、理想を求めてしまった。

そして、ぼく自身も今、「普通の家庭が、ただ幸せでいられる」ようなことはそうそう長く続かないと思っているのである。市井の人たちのささやかな幸せみたいなものが、今のままではそうそう続かないと思っている。

普通の人だって火を使うでしょう。ささやかな幸せも、サンマを焼けるから成り立っているわけです。そして、その火は文明をもたらし、ささやかな幸せももたらしたけど、戦火をもたらすこともある。まったく同じ火ではないけど、まったく別というわけでもない。

この先の世の中にずいぶんな混乱が見えているのは確かだ。しかし、それを人に伝えるだけの人間力がぼくに欠けているのも確かなことだ。

林氏でもあれだけのまちがいをしでかしたわけなので、ぼくがそれ以上賢明な選択をやれるとはとても思えない。どうせなるようにしかならないのだから、だまって見ていればいい。

黙ってみていられないのは、黙ってみているのがあまりに苦しいからだが、その苦しさに耐える以上にやれることは何もないのかもしれない。

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