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ボーカルがわからない

フランツ・カフカが生涯なやんでいたことの1つに「映画がわからない」というのがあったそうだ。『カフカとの対話』という作品の中に書いてある。この本は、晩年のカフカと親交を結んだグスタフ・ヤノーホという青年の日記である。

映画がわからないというのは、特定の作品が理解できないという意味ではなくて、映画そのものが理解できないということである。映像に視線を拘束されることに耐えられなかったらしい。

当時は、活動写真が普及し始めたころで、カフカは映画がわからない自分にずいぶん孤独を感じていたようすだ。

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はじめて告白するが、じつは、ぼくはボーカルというのが、かなり理解できない。楽器の音とまじりあってコーラスが入っているぶんにはなんの違和感もないが、他の楽器よりも前に出ているボーカルをうまく理解できないことがある。

カフカが映画を理解できないことが映画の否定ではないように、ぼくがボーカルを理解できないこともボーカルの否定ではない。認知的な欠陥だと思う。カラオケが苦手なのだけど、それとも関係がありそうだ。

「ボーカルがわからない」と書いて共感を呼べることはまずないので、カフカほどではないが孤独だし、窮屈だ。酒が飲めないのに宴会に出ているような気分である。

オペラでは、オーケストラは"ピット"とよばれるステージ下の暗闇にいる。しかし、ピットでオペラ歌手が歌うことはありえない。つまり、オーケストラとオペラ歌手の役割はかなり異なるわけで、歌手は音を聞かせるだけでなく、姿を見せることも仕事の一部だ。

姿を見せる役割というのは、音を聞かせる必要のないミュージシャン、つまりエアバンドや口パクにもつながる。

ボーカルがわからないということは、ボクが映画がスキだが作りたいと思ったことがないこととも関係がありそうに思う。「それがどうした?」と言われたら困るが、何かのヒントになるかもしれないと思って書いてみた。俳優に語らせるということは、歌手に歌わせることと通じる要素があるのだろう。

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