天才が映画を見ないのはなぜか
「ギフテッド」という言葉を聞いたことがあるだろうか。
知能指数が130以上ある人がそう呼ばれるのだそうで、全人類のだいたい2%くらいが該当するといわれる。ちなみに知能の標準は100である。
ギフテッド(gifted)の文字通りの意味は「ギフトを与えられている人」ということで、この場合のギフトとは、お歳暮ではなくて、天賦の才能ということである。
ぼくは最近、ギフテッドに関するウェブ記事をよく読んでいる。
知能指数のすごさ
知能指数というと漠然としてイメージがわかないが、具体的な人に取材しているのを見るとどういうものなのかがだんだんわかってきて、そのすごさと限界がわかってきておもしろい。
日本の歴代最高はIQ188なのだそうで、話を聞いているとやっぱりすごくて、並みの頭のよさとは次元が異なる。
この人は、小学校4年でパスカルの『パンセ』を読んでいたそうだ。また、小学校の算数の授業で時間の計算を習った時に、「時間」の概念がわからなかったのでアインシュタインの相対性理論を学んで、魂を揺さぶられたのだという。
音楽や絵画などにも才能を発揮しており、絵画はギャラリーと契約し、交響曲の作曲もやっている。
こう書くとまるでスーパーマンだが、いいことばかりではない・・というか、ほとんどのギフテッドはうまく社会に溶け込めずに苦しんでいる。
ぼくが、なぜこういう人たちに興味を持つかというと、きっかけはたまたま記事を読んだだけなんだけど、これからのAIの時代がくれば、この手の頭のよさと、この手の頭のよさには還元できないものとの違いをわかっておかなければならない気がするからでもある。
知能指数の限界
さて、ギフテッドはすごいけど。そのうえで、すごさだけでなく、ある種のつまらなさも感じる。
かれらは、活字や数字から抽象的な情報を読み取る能力には長けているけど、映画のようなものから情報を読み取る能力には長けてないようにみえるからだ。だからこそ世間と折り合いがつかないのだろう。
ギフテッドの多くが口をそろえて言うのが、
ということだ。ぼくはギフテッドのみなさんのように頭はよくないが、その抽象志向の気持ちはわからないでもないし、そういう人が世間に興味を持てず、浮いてしまう状況もわかる。
だからこそ、そういう人たちには
と言いたい。まあ、ぼくはなんでもかんでも「映画をお勧めする」タイプの人間なので、以下は話半分に聞いてもらいたいんだけど。
映画を通じた情報処理
ギフテッドは、「映画なんかかったるい」、「哲学書や数学書を読んでいるほうが楽しい」というだろうが、映画がかったるいと思うのは、情報量が少ないからではない。
情報量は多いのだが、活字や数字や図形のようにわかりやすくコード化されてないだけだ。映画の情報は、俳優のちょっとした表情の変化や、声のトーンの変化や、カメラの動きや、画面の色調や、カットのタイミングや、光の当たり方などさまざまなところに埋め込まれている。
いくらギフテッドでも優れた映画に盛り込まれているあらゆる情報を1回で受け取るのはムリなのだが、そういうところに気づけないから、世間とうまくいかないのである。
これはギフテッドに限らずで、自分の好きなことには異様な集中力を発揮できるけど、世間とうまくいかないあらゆるオタクやマニアが、もし生きづらさを抱えているというなら、なるべく若いうちに映画を見ることをおすすめする。
映画から情報を読み取り、その背後の人間心理に想像を膨らませることができるようになれば、世間との折り合いなど簡単につけられるし、それはそんなに難しいことではない。
ぼくも後天的にそのやり方を身に着けたので、だれでもやれるはずである。
人間のおもしろさがわからないままで、宇宙だの時間だのと言いたければそれは本人の勝手なんだけど、とはいえ、ちょっと工夫すれば身につくことなので、まあ、やってみても損はないと思いますね。
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