モノの見方にぜったいなどというものはない
昨日も書いたように(「ポップへの違和感」)、時代小説を読みふけっていると、これまで自分にとってごく当たり前だった世界をすこし距離を置いて眺められるようになる。
藤沢周平作品を読んでいて生じる現代への違和感を一言で表すなら、たぶん失われつつある「高潔さ」ということになりそうだ。
しかし、われながらおどろきである。こんなレイドバックした人間が高潔さについて語るとは...。やはりモノの見方にはぜったいなどというものはない。
「自分の見方とは正反対の見方があらゆる物事に対して必ず成り立つ」
これは現在までにぼくが得ているもっとも根本的な考え方の一つである。あらゆる物事についてつねに必ず成り立つと考えている。
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民主化が進むと、才能が小粒になるとよく言われる。
ぼくの師匠の師匠は、芸者屋から大学の講義に通っていたそうだが、師匠の代になるともうそんな豪傑はいない。
それは社会格差が是正されたということもであるから、まあいいことなのだろう。ただし、なんでもかんでも平等な世の中では、にんげんが妙にチマチマしてくるという面もある。
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江戸時代の武士だからといって、だれもが高潔だったとは限らない。
しかし「侍の子だから」ということで精いっぱいツッパって生きていた人たちもいただろう。
いざ切腹を仰せつかっても顔色一つ変えないというツッパリ方は、現代人から見ればかなりムリがある。だが、単に野蛮というだけでは済まない一所懸命さをぼくは感じる。
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高潔と一所懸命さという点でぼくが思い浮かべるのは宮沢賢治の「雨ニモマケズ」である。
じっさいにそういうひとがいたわけではないけど、あんな風な理想があったっていい。
サムサノナツハオロオロアルキ
これは「老後の資金が足りないと言ってオロオロ歩く」のとはちがう。
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
清貧がいいとは言わないが、ダイヤモンドプリンセスでクルーズしなければ生きている甲斐がないなんてこともないだろう。
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
こう思っている賢治は、現代の成功者から見ればバカなのか?
蓄財のためにオロオロ歩いていなければ人間失格なのだろうか。
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スーパーボランティアの尾畠春夫さんなんかかなりこれに近い。
ズルく生きようと思えばいくらでもズルく生きられる時代だけど、もうちょっと背筋を伸ばして、前を向いて歩いていきたい。
藤沢作品を読んでいると、すこし襟を正される思いがする。たぶん藤沢周平さん自身が割にまっとうな人だったんだろう。
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