楽しい - エモい = おもしろい
「楽しい」と「苦しい」
よくスポーツ選手がオリンピック出場前にメディアに聞かれて
というけど、これは期待を背負って自分を追い込んでしまうと、体が固まって力を発揮できないから、意識的に楽しもうとしているということでいいだろう。
ベストパフォーマンスを発揮するために意識的に楽しもうとしているということだから、「楽しみを勝つための手段にしている」といえば言えなくもない。
いまWBCを控えて侍ジャパンが合宿しているけど、合流したダルビッシュ投手が、
と言っていたが同じことだ。
勝ちたいと思ってガチガチになると力を発揮できないので、リラックスして日ごろの力を発揮してその結果として勝てればいいね、という意味なのだろう。上手にマインドをコントロールして、勝ちにつなげてほしいということだ。
一方で、かれの中には、勝つための手段として楽しめと言っているだけではなく、本当に楽しんでほしいという気持ちもあるだろう。
メンバーは「好きな野球をやってきて、その中でベストメンバー」なので、そういう自分に誇りをもって、一度しかない大会で充実した思い出を作ってほしいという気持ちも透けて見える。
このあたりは、手段としての楽しみと、結果としての楽しみの意識がせめぎあっている。楽しんだ結果として勝てればいいけど、勝つためにがんばった結果として楽しい思い出ができればいいね、ということだ。
「気負って、ガチガチに」なって、勝ったとしても、苦しくて二度とやりたくないと感じることもあるし、のびのびと思い切りぶつかって負けてもいい思い出になることもある。
これはスポーツ以外のなんでも同じで
どれも、充実した時間を過ごせた、という豊かさの記憶が楽しさの本質だと思える。
「楽しい」と「おもしろい」
このように
ということでいいと思うのだが、一方に「おもしろい」というのもあり、「たのしい」と「おもしろい」は重なっているけどまったく同じではない。
日本古来の「おもしろし」という言葉にはいろんな意味合いが込められているらしいが、今の時代におもしろいというばあいは、たいてい「興味深い」ということであり、つまり知的に興味を引かれるという意味で使われる。
ぼくは映画を見るのが好きで、ゲームをするのも好きなのだが、両者のたのしさがだいぶちがう。いい映画を見た後では「たのしかったな」と思うのだが、ゲームをやった後では「おもしろかったな」と感じる。この2つがかなり異なっているので、不思議に思っていた。
いい映画を見ると、感動したり、泣いたり、笑ったり、ハラハラしたりするのだが、これらは受け身の楽しさというか、作り手に与えられるものであって、2時間見れば、2時間分確実に得られる豊かさだ。
一方、ゲームは、自分で謎を解き、攻略法を練り、ステージをクリアして、勝負に勝たなければぜんぜん楽しくない。1か月くらい同じ場面でひたすら殺されまくって楽しくないどころか、ストレスを感じることもある。そのままで挫折すれば、1か月という時間が
ムダな時間に終わってしまう。しかし、それでも粘って知恵を絞ってクリアした時にようやく報われて
となり、オセロがひっくり返るように、それまでのストレスがいい思い出になるわけで、どちらに転ぶかはぼくの戦い方次第である。そのあたりが「おもしろい」。
「おもしろい」と「儲かる」
この「おもしろさ」が世間でゲーム性と呼ばれているものだ。「ルールに縛られた中で勝ちを目指すおもしろさ」である。
ゲーム性についてはいろんな人がいろんなことを言っているが、この記事がおもしろかった。
Twitterや俳句を楽しんでいる人は自分がゲームをやっているとは思わないだろうが、佐々木氏の考え方では、知らず知らずにゲームのおもしろさにはまっているといえる。
そう考えてみれば、日常の様々な物事も、あえて制限を設けてそれを攻略することで、おもしろくしていけるということにもなる。
たとえば、佐々木さんはこう言う。
法律縛りというゲームを攻略しているのだと思えば、生活をおもしろくできるということだ。これがよくゲーミフィケーションと呼ばれているもので、日常の様々なことにゲーム性を持たせてやれば、おもしろくなり、苦しいものではなくなる。
だが、これをやるには、楽しいことを楽しいと思っているだけではだめで、一見するとめんどくさい、苦しい、つまらない、と思える物事を「苦しい縛り」「つまらない縛り」の縛りプレイとして積極的におもしろがる工夫が求められる。
おもしろさというのは、与えられるものではなく、自分で作り出すものだ。
商売人の中には、あきらかに商いそのものを楽しんでいる人たちがおり、食べていくためにお金が必要なのはもちろんだけど、それ以上におもしろがっている。自分で見込んで仕入れた商品が売れたり、ビジネスプランが思い描いた通りに展開していくこと自体をおもしろがっているんだけど、かれらはビジネスゲームとして楽しんでいる。
生活のためにイヤイヤ働くより、おもしろいほうがいいに決まっているのだが、日常の様々な物事をゲームとしておもしろがるには、エモくなりすぎたらうまくいかない。
楽しい - エモい = おもしろい
「映画を見て感動の嵐に飲み込まれる」みたいな受け身な楽しみ方だけではゲームにならない。周囲を観客を見渡して、だれがどれくらい泣いているか観察してなにかを発見するような知的好奇心がいる。
ちょっと不謹慎だと思えるくらいに価値観を転倒させてみなければ苦しいことがおもしろくはならないわけで、そのためにはエモさは抑え気味にしなければならない。
たとえば
みたいなことをエモく信じ込んでしまうと、
とエモく腹が立つだけで全然おもしろくなくなる。
それより「遊んで儲かるなんておもしろいね!」くらいにエモさを抜いて捉えたほうがいいのだ。アタマの固い人を怒らせるくらいの目線で物事を見ていないと、世の中はおもしろくならない。
上の記事で佐々木さんも、
と言っているけど、役に立たないからけしからん!じゃなくて、役に立たないからこそおもしろい。
なのである。ここに世の中をおもしろがる秘訣がある。
硬直した価値観が、世の中を楽しくしたことも平和にしたこともかつてない。
人はやたらとエモくなりたがるが、エモくなりすぎた世の中は、苦しくてつまらないばっかりだ。それよりも、バカバカしいことをおもしろがっているうちに、なんだか楽しくなったり平和になったりするほうがいい。
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