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ある日、世界中の人間が、死に絶えてしまった。

ある日、世界中の人間が、死に絶えてしまった。

感染症なのか何なのか、原因はまったくわからない。なぜか自分だけが生きのびているのだが、その理由もわからない・・というようなシチュエーションではじまる映画を昨晩観た。『孤独なふりした世界で』(2019)

場所はアメリカの田舎町で、たったひとり取り残された男性が主人公だ。

かれは公共図書館を住みかに決め、人気のないスーパーから食材を取ってきて調理し、どこかで手に入れたた膨大なワインをちびちび飲みながら、閲覧室でひとり食事をする。

日中は、近所の家を回って、死人を見つけると運び出しては、郊外の空き地に埋葬していく。

日が暮れれば、図書館の蔵書の整理してすごす。彼は自分が取り残されたことを苦にしておらず、むしろ喜んでいるように見える。

たんたんと町を片付け、蔵書を整理し、夜はワインを飲んで、古い映画のDVDを観て、たまに湖に釣りに出かける。人類の消えてしまった世界で、そういう生活を営むことに、満ち足りている様子だ。

だが他の人も生きていた

この映画は一定の評価を得ているらしいけど、近頃は引きこもりも多いので、こういう設定に共感する人が多いのだろう。

ぼく自身、ああいう境遇に陥ったら、とくに不満もなく、彼と同じように淡々と暮らしていける気がするので、共感しているほうだ。

しかし、そうやって主人公が淡々とすごしていると、ある日、夜空にとつぜん花火が打ちあがる。何発も何発も。

自分だけが生き残っているのだと思っていたけど、そうではないらしい・・とわかる。というところから映画が始まるのだが、これ以上映画の話をする気はなくて、問題はこの花火である。

花火に興味がない

ぼくは花火を見に行かないタイプの人間だ。

「隅田川花火大会」という言葉は、ぼくの耳には「近畿地区ゲートボール大会」とか、「世界理容選手権」などと同じように響く。つまり、聞いているようで聞いていない。

念のため言っておくけど、花火の好きな人に難癖をつけるつもりはない。自分がかなりの変人だということを告白しているだけである。まあ、わかると思うけど。

いつからこうなったのか覚えていないが、こどものころはこうではなかった。お祭りの日に打ちあがる花火を楽しみにしていたし、若い頃はデートで花火大会に行ったこともあるので、こんな風ではなかった。

でも、映画の主人公が、真夜中に打ちあがった花火におどろき、迷惑がっている姿を見て

うるさくてめんどくさいよね・・

と思わず、共感してしまったのだった。あえていえば、野球に興味のない人にとっての「ワールド・ベースボール・クラシック」みたいなものかもしれない。

「特別な時間」はひとそれぞれ

そこであらためて「なぜ花火を見なくなったのか」を考えてみたんだけど、たぶん、

そこに「特別な時間」を感じないから

だとしか言えない。

人生の時間はだれにとっても限りがある。できればすべての時間を大事にしたいけど、そうもいかないので、ときどきでいいから「特別な時間」を持ちたいと思う。

そういう特別な時間の記憶が増えるほど、自分が豊かなになった気がするからだ。だから人は、花火を見に行ったり、卒業式や結婚式を大事にしたりするのだろう。

にもかかわらず、ぼくにとっては、たくさんの人が集まり「これは特別な時間である」と宣言されるような時間が、自分にとっての特別な時間になったためしがない。

花火大会だとか、有名な観光地に行ったときの記憶だとか、卒業式だとか、冠婚葬祭だとかが特別な時間として心に残ったためしがないのだ。心に残っている特別な記憶のほとんどすべてが、そのときはどうでもいいように思っていたことばかりである。

それがわかってきたので、多くの人が「これは特別な時間だ」と決めてかかっている時間をどうでもいいと感じるようになったのではないかと思う。

どうでもいい風景

中学生の頃の記憶は、卒業式や運動会より、河原でエロ本を探し回っているときのほうが鮮やかに残っている。

アメリカで一番鮮明に記憶している風景は、自由の女神ではなくて、通っていた大学の図書館の書庫の最上階の窓から見た風景だ。

ひとりになりたいときによく最上階へ上った。汚れた窓から、地平線まで続く森林が見えるのだが、最初の頃は、

こんなところで何年も暮らさなければならないのか・・

とうんざりして、ため息をついていた。だが数年がたち、帰国が決まった頃になると、この風景が名残惜しく、この窓からこれを見ることは二度とないのだろうな、などと思ったものだが、今でも、あの風景は、30代はじめのころの自分のすべてが入っている特別な記憶だと思える。

ちなみに今年の夏、一番鮮やかに記憶しているのは、友だちの家の庭先を這っていたダンゴ虫である。

もしかすると、多くの人の記憶は、卒業式や花火大会でできあがっているのかもしれないが、ぼくの記憶は、こういうガラクタみたいなものの積み重ねでできあがっている。それがわかってきたので、「立派な景色」には、しだいに興味がなくなってしまったのだろう。


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