神様の悩み事を聞くヤツになりたい
ドラマなどでカップルがけんかしている場合のセリフで
みたいなのがあるでしょう。男の人がやりがちなのだが、異性に対して無意識に「母親の役割を求めてしまう」。
そういう奴は未熟なんだとか、マザコンなんだとか言って斬って捨てるのは簡単だが、だれでも多かれ少なかれこういうものは持っているだろう。
太平洋戦争で日本軍兵士は「天皇陛下万歳」と叫んで突撃するように教育されていたらしいけど、実際には「おかあさん!」と叫ぶ人もいたそうだ。
オウムの井上嘉浩元死刑囚はさいごに「お父さん、お母さん。ありがとうございました。心配しないで」と言ったと聞いた。
日頃はいっぱしの大人としてふるまっていても、生死のぎりぎりのところにくれば、心細さや庇護を求める気持ちが親への叫びになることはだれにでもある。
人はいくつになっても、なにかしらのよりどころというか、頼りない自分を包んでくれるような、庇護してくれるような存在を求めてしまうものだ。
■親性(おやせい)とは
さて、最近の子育ての理論では、母性と父性をあえて区別せず、庇護する能力全般を「親性(おやせい)」という風にとらえるのだそうだ。
人間は長いこと、父性に対するのが母性で、母性に対するものが父性だとおもってやってきたわけだが、その二つを「親性」としてまとめてしまった場合、それに対立するものはいったいなんなのだろうか。
つまり、親性の対義語は何なのだろうか?
ネットを探してもそういう問題提起をしている人がいないので、ぼくが勝手に答えてしまうことにするけど、親性の対義語は
子性、または子ども性
だと思う。「こどもらしさ」と言ってもいい。親らしさの反対は子どもらしさである。土壇場で、おかあさん!と叫びたくなるのが子性である。
いくつになっても子性は残る。戸籍上の親になっても、社長になっても、大統領になっても、教祖様になっても、「おかあさん!」が消えることはない。
人が人であるかぎり、生きていることの不安感が消えてしまうわけがないし、頼りない自分を庇護してくれる存在を求めてしまう。
こうして、生涯消えることのない「人のよるべなさ」というか、生きていること自体の不安というものを癒し、支えてくれる究極の存在が
ネ申
なのだろう。究極の「子性」に対する究極の「親性(おやせい)」こそが「神性」の正体なのだと思う。じっさい、イエスは神のことを「父」と呼んだし、神以外のすべての人間を「人の子」と呼んだ。
■ブラザーフッドへ向けて
でも、たとえ人間がよるべない「人の子」にすぎないとしても、それでも成長はする。
さいごのさいごには「お母さん!」と叫ぶのだとしても、それでも成長した先に、「自律した個人」というものもあるはずで、それは決して子から親になることではないとぼくは思うのだ。被庇護者から庇護者になることが成長ではない。
当たり前のことだけど、子どもがいなければ親にはなれない。これは泥棒がいなければ警察官になれないのと同じであり、ジョーカーがいなければバットマンがただのコスプレ変態オヤジになってしまうのとおなじことだ。
バットマンは、ジョーカーがいなければ成り立たず、グルも弟子がいなければなりたたない。親も子がいなけれれば成り立たない。つまり、もたれあっている。
こういうタテの依存性の中に「真に自律した人」のありかたを見出すことはぼくにはできない。子は親になるために成長するのだとはどうにも思えない。
もし、子から親に、庇護される側から庇護する側になるのが成長だとすれば、究極の成長とは、現人神(あらひとがみ)になることであり、グル(導師)になることになってしまう。そんな宇宙はごめん被りたい。
ぼくの考える「自律」とは、庇護するのでも庇護されるのでもなく相手と対等の関係に立つことだ。
たとえば、付き合い始めたカップルは当初、相手に対して父性や母性を求めているかもしれないが、やがて相手が単なる「人」にすぎないと気づく。そのことに失望し、別れてしまえば「他人」になるわけだが、二人でなんとか生きていこうと思えば相手は「パートナー」になるし、仲間になるし、戦友になる。
こういう大きな意味での「同胞性」というか、兄弟姉妹性(ブラザーフッド)みたいなものが自律した個人同士のかかわり方だと思っている。
神と人や、親と子や、グルと弟子の関係では、庇護者と被庇護者の立場が一方通行で固定されており、守る人と守られる人が上下の関係になっているけど、戦友は、おたがいに守り守られる。お互いに相手を理解しようと努めるし、気を使いあうし、助け合う。
50代に入ってあらためてそういう対等な関係性の大切さを思うようになった。親性でも父性でも母性でも子性でもなく、同胞性というか、ヨコの関係をだれとでも結べるのが、真に自律した個人ではないかと思うようになった。自分がそうなれているというわけではないけど、それを目指している。
話をはしょって書いてしまうと、本来民主主義というのはこういう自律した個人と個人の間でしか成り立たないはずで、天皇を親と思っていたら成り立たない。
国が親で、あなたが子なのではない。岸田さんがあなたを助けることもあるが、あなたが岸田さんを助けることもある。たがいに喧嘩することもあるだろうが、まずは対等の間柄としてお互いのことを理解しようと努めること。これが自律した個人のありかただ。
■真の自律をめざして
民主主義は置いておくとして、宗教とスピリチュアルについて最後に言っておこう。
もし、神とよばれるような存在がいるとすれば、ぼくはそういった存在ともブラザーフッドの延長というか、対等であろうと務めたいし、たとえムリでもそういう気概で向き合いたい。相手がどんな存在だろうと相手を理解しようとし、助け合う姿勢を一貫したい。
神様はおいておくとしても、教祖や占い師や霊能者やカウンセラーに対して
のクレクレ君状態ではなく
と聞くようなヤツでいたい。自分のことはわきに置いておいて相手を理解する姿勢でいたいし、そう思っていることを相手に伝えたい。
たとえ相手が神であっても
ではなくて、
と聞くやつになりたい。
もちろん、ぼくだって最後には「おかあさん!」と行って死ぬのかもしれないが、そうだとしても元気なうちは神様の悩み事をたずねるようなホモサピエンスを目指したい。
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