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ジョイマンにあって、陛下にないものとは?

どうでもいいシンクロ

「シンクロ」と呼ばれる現象がありますよね。正確にはシンクロニシティというのだけど、偶然とは思えないような偶然の一致のこと。

この現象の正体はぼくにはわからないけど、いずれにせよ、シンクロがまったく起こらない人というのはあまり聞いたことがないのであなたもにもしょっちゅう起こるはずだ。ただし、その大半は意味のないもので、そこに意味づけしてしまうとよくない。

たとえばあなたが今朝納豆を食べたとしよう。そしてあなたが密かに心を寄せている人も

今朝、納豆を食べたよ

と言ったしよう。そこで食べた銘柄を尋ねてみると、彼は「おかめ納豆」をたべたと言い、そしてあなたが今朝食べたのも「おかめ納豆」だったとしても、だからといって「二人は粘りに粘って、結ばれる運命にあるのだ」などと早合点してはいけない。そこに意味はなくて、どうでもいいシンクロである。

なので、シンクロを意識しすぎるのもよくないのだが、とはいえ偶然とは思えないような偶然の一致がよく起こるのも事実だ。

たとえば、ぼくは今朝の10時ごろに横溝正史の『悪魔の手毬唄』を読みおえ、続けて『悪魔が来りて笛を吹く』を読み始めた。それから11時になったところでNHKのウェブニュースを開いてみたところで、こういう記事が載っていた。

所在不明になっていた映画『悪魔が来りて笛を吹く』(1954)の16ミリフィルムがこのほど発見されたそうだ。

とっさにパーソナライズされた記事かとも思ったのだけど、ぼくはネットで"横溝正史"とか"金田一耕助"などと検索したことはなく、また、子供の頃に買った角川文庫を読み返しているだけなので、アマゾンも利用していない。

横溝正史を読んでいることがグーグルにバレているとは思えないので、パーソナライズされた記事だとは思えない。記事の更新日時を見ると

2024年2月25日 10時09分

とあるので、『悪魔が来りて笛を吹く』を読み始めたのとほぼ同時にアップされたことになる。これは一種のシンクロだろう。とはいえ、おかめ納豆と同じで意味のないシンクロだと思いたい。なぜなら意味があったら困るからである。

もし今読んでいるのが筒井康隆の『富豪刑事』だったなら「これから富豪になるという予兆かもしれない」などと考えてニンマリしていればいいけど、「これから悪魔がやってきて笛を吹くのだろうな・・」などとは思いたくないので、くりかえしますが、こういうことに意味はないのである。以上を強調しておいてから本題に移ります。

陛下の誕生日会見

なぜあのタイミングでNHKウェブを開いたかというと、先日の陛下の誕生日の記者会見の全文を読み直して、それを今日のnote記事にしたいと考えていたからだ。

先日の陛下のお誕生日の記者会見を読んでいて

陛下って大変なお仕事だな・・

とつくづく思ったのでそのことを記事に書こうと思ったのだった。

誕生日に限らずだけど、そもそも陛下のお言葉というのは、国民をだれひとり不愉快にすることなく、全員に希望や勇気を与えるようなものでなければならない。

ぼくはここに言いたい放題書いているけど、陛下は言いたいことなど一言も言えないのである。今回のお言葉も、そういう配慮が言い回しのすみずみにまで行き届いているのをあらためて感じ取させられた。たいへんなお役目だ。

しかも、陛下というポジションは立候補したり、望んで勝ち取ったりするものではなくて、生まれながらに決められたポジションだ。

生涯、国民の幸せを祈り、国民の苦しみに寄り添う人生を生まれながらに背負っておられるわけで、将来プロレスラーになりたいとか、田舎で自給自足を目指そうとか、学校に行かないでYouTuberになろうとか、そういう選択肢がいっさいない。

買い食いも立ち読みもできないし、歩いているだけで、国民が旗を振ってくるので、かならず笑顔でこたえなければならず、ムッツリと歩くことすらできない人生だ。

むしろ、何も考えずに旗を振る国民どもに言いたい。

ちったあ遠慮しろよ、と。

考えてみてほしいのである。ひとりの人間にそこまで背負わせるのは酷ではないだろうか。陛下だってたまにはコンビニで立ち読みしたいだろう。しかし、国民が脊髄反射で旗を振るから、いつも笑顔で応えねばならない。

ジョイマンの「サイン会ゼロ事件」

かつて「ジョイマンのサイン会ゼロ人事件」というのがあったけど、陛下だってたまには一般参賀がゼロ人になるリスクを味わいたいはずである(そうにちがいない)。

陛下も味わいたいはず・・

陛下だってたまには

オレ最近、いまいち人気ねえなあ・・もっと告知を徹底して、明日は一般参賀を集めよう!

などとやる気を出したいはずなのだが、そうやってやる気を出す自由すらないのである。言い換えれば、国民が「何も考えずに旗を振る」おかげで、陛下は承認欲求を芽生えさせることすらできない

そんなむごいことはやりたくないなあ、などと思いますよね。だからせめてたまには一般参賀を差し控えて、ゼロ人を達成しましょう。そうすれば、陛下だってジョイマンみたいに「リベンジしよう!」と思う自由が生まれる。これは国民からのプレゼントである。自由という名のプレゼント。

という風に、ぼくだって言いたい放題を書いているけど、それは

どうせ誰も読んでないだろ・・

と高をくくっているからだ。もし、右翼の大物やら、めんどくさい人々がこれを読んでいるのがわかっていたら、ぼくだって陛下とジョイマンをくらべたりできやしない。

みなさんの健康と幸せを願って、今日も頑張ります

くらいのおもしろくないことしかしか書けない。

こう思ってみれば「つまらないことを書く」というのは大変なことだ。陛下の会見全文を読んでいると「1億2000万人が満足するようなことをたえず言わねばならない」というに大変なお仕事だなあとつくづく思った次第です。

「マズローの欲望5段階説」を当てはめてみる

ところで、マズローの欲望5段階説というのがある。あれは、下から「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求」「承認欲求」「自己実現の欲求」ということになっている。ただし、その上に6段目もあるとされており、それが「自己超越の欲求」だ。

5段目の自己実現は、あくまで自分の理想を目指すもので、「自分」にベクトルが向いているのに対し、6段目の自己超越の欲求とは、他人のために動くことで、

世界のことを憂う純粋な思い

に突き動かされるものだそうだ。

マズローの説では、低次の欲求が満たされたら上に行くとされている。まず食欲や性欲が満たされれば、次に安全を求める。安全が満たされれば仲間を求める。そして仲間の中で承認欲求を満たし、それから自己実現へ、という風にいくわけである。

だから6段目の真の慈善活動を行う人は、ビル・ゲイツみたいに「自分のやりたいことを十分にやり終わって満たされた人」だと考えられている。しかし、陛下の場合は、5段目を飛ばして、6を求められるポジションなのだ。

1234段階は生まれながらに満たされており、承認欲求すら芽生えさせることができない。しかし、5の自己実現の欲求を満たす余地がかぎりなくゼロに近く、そこを飛ばして第6段目の「世界を憂う純粋な思い」を要求される。エリザベス女王なども同じだけど、あたりまえのことだとおもってはいけない。

有名人は承認欲求が強い?

ところで、どの段階も欲望の大きさは人によって異なり、いくら食欲を満たしても十分じゃないという人もいるし、性欲モンスターみたいな人もいるし、ひとそれぞれだ。

その上で、最近よく思うのだが、いわゆる有名人の特徴は承認欲求がかなり強い人ではないだろうか。

無名の人でも承認欲求をほどほどに満たして、さっさと自己実現へ向かっている人もいるけれど、有名人ってのは「100万いいね」に達したら「1億いいね」まで行きたいみたいな人が多い気がする。

ちなみに1~4段階は欠乏欲求と呼ばれており、欠けているものを補おうとすることなのだそうなので、承認欲求が強いということは、認められていないという気持ちがそれだけ強いのかもしれない。陛下の承認欲求が生まれつき満たされているのとは真逆のような気がする。

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