猫伝
みなさんはnoteやらブログやらのタイトルはどうやってつけているのだろう?タイトルを決めてから書く人。書いてから決める人いろいろいるのだろうなあ。
そりゃ、できれば人が興味をもってくれそうなタイトルにしたい。しかし、どういう人に読んでもらいたいかというのもまたそれぞれである。
たとえば、この記事を「クリックされやすいタイトルのつけ方」にすることもできるし、「旅行大好き女子にクリックされやすいタイトルのつけ方」にすることもできる。すると、アクセス数が伸びやなやんでいる人や、旅行大好き女子たちにアクセスしたい人などのクリックが増えるかもしれない。
なんにしても、人の悩みを解決するというのはリッパなことである。
ぼく自身は、タイトルをつけるのが少々めんどうくさい。日付だけでもいいような気がするけど、それでは読んでくれた人に失礼だという気もする。
どうやらぼくは「読んでくれた人」を意識してつけることが多いようだ。潜在的な読者向けというより、読んでくれた人向けである。せっかくここまで来てもらったんだからついでにもう一つおもしろがってもらいたい、というアフターサービス的精神でつけることが多い。
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タイトルと言えば、夏目漱石の『吾輩は猫である』は、もともと『猫伝』というタイトルだったそうだ。現行タイトルに替えたのは弟子の高浜虚子である。
「猫伝」としようかという話があったのでありますが、「猫伝」というよりも、文章の初めが「吾輩は猫である。名前はまだない」という書き出しでありますから、その「吾輩は猫である」という冒頭の一句をそのまま表題にして「吾輩は猫である」という事にしたらどうかというと、漱石は、それでも結構だ、名前はどうでもいいからして、私に勝手につけてくれろ、という話でありました。「吾輩は猫である」
弟子の目から見ても、『猫伝』ではちょっとなあ・・・と感じたのだろう。
しかし、そもそも『吾輩は猫である』のタイトルがしゃれているのはネコに「吾輩」と言わせている点である。これは虚子の創作ではない。作品の冒頭そのままなので漱石のセンスだ。
ただし、漱石自身は、これがタイトルにふさわしいとは気づかなかった。そう考えるとこの一文をすくい上げた虚子のセンスという気もする。
漱石はこの作品で世に出たわけで、それにはキャッチ―なタイトルも少なからず影響したと思われる。それにしては「名前はどうでもいいからして、勝手につけてくれろ」などとあつかいがぞんざいだ。
のちの漱石作品は、『道草』、『明暗』、『草枕』、『三四郎』、『門』、『それから』、『こころ』・・・いずれもタイトルは短く、よくもわるくも生涯『猫伝』の域にとどまっていたことがわかる。そうするとやはり虚子のセンスと言うべきなのか。
ちなみに高浜虚子の墓は鎌倉にあるが、生まれは愛媛である。ぼくの実家から歩いてすぐのところに生家の記念碑がある。散歩して前をとおることが多い。
そういう同郷人のぼくも虚子に賛成だ。「『猫伝』はちょっとなあ…」と思う。あまりにそっけなさすぎてクリック数が落ちそうな気がするんだけど、どうだろう?「猫伝」の方がいいのだろうか?ここまで読んでくれた人、いかがでしたか?
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