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応援に上も下もないという話

世の中に、なんの応援もやっていないという人はいないだろう。だれもがなんらかの応援をやっているはずで、すこし広げて考えてればさまざまなことが応援活動だとわかる。

たとえば、子育ては、こどもの応援活動だ。目に見える利害を越えた動機がなければ、子どもを育てるという大変な活動を引き受けることはできない。その意味では、子どものファンをやっているといえる。

宗教だってファン活動だ。キリスト教の信者とはイエスのファンである。ユダヤ教やイスラム教とのちがいは、「イエス推し」かどうかにかかっている。

トランプ運動もおなじで、あれはトランプ推しの集まりだ。

さて、応援される人にはそれだけの魅力があるから応援されるわけなのでそれはそれでいいとして、今日取り上げたいのは、「応援する側がしらずしらずにプロ化してしまう」という問題だ。

わかりやすくいえば、アイドル本人よりもファンクラブ会長のほうがエラくなってしまうようなこと。ファンクラブ会長にはアイドル本人のような魅力がないにもかかわらず、そこに権力が集中することがよくある。

たとえば、キリスト教のアイドルはイエスである。しかしイエスははるか昔に亡くなっており、いまイエスを応援する人たちのパワーをカネや権力に換えているのは実質「イエス・ファンクラブ」の会長や支部長、つまり教会組織の中心にいる人たちだ。

これは宗教に限らない。応援している人が大きな顔をし始めるということはよくあって、自分はこれだけ応援したのだから、あとから来た人よりもエライはずだという妙な権利意識というか、なわばり意識が生まれやすい。

このあたりを自分の中ではっきりさせておかなければ、見かけ上の「献身」や「応援」はいつでも独占欲や私利私欲に切り替わる。

たとえば、ぼく自身がだれかを応援している場合にも、ちょっと力を入れなければならないことがある。しかし、それは、だれかの役割をたまたま今ぼくががやっているだけで、代わりの人があらわれればいつでも代わってもらうし、功労者認定など要らない。

新約聖書に「後の者が先になり、先の者が後になる」という言葉があるそうだが、先に応援を始めたからといって、あとから来た人よりエラかったりはしないのだ。

これをわすれると、応援をする側の人があとからきた応援者に対して大きな顔をするようになってしまう。組織におけるカルトやブラックの問題にはだいたいこれが絡んでいるようだ。このことを忘れないようにしている。

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