会話に必要なのは「共通の話題」ではなくて「掘る力」
同窓会あるある
同窓会にいって旧友に会ったりすると、最初のうちは昔話でもりあがるんだけどそのうち共通の話題がなくなってきて会話が成り立たなくなる、みたいな話をよく聞く。
ぼくも「それはその通りだよなあ」と、最近まで思っていたんだけど、ちょっと考えが変わってきた。
人と人がおもしろく会話するのに「共通の話題」なんかいらない。共通の話題なんかなくてもいくらでおもしろく話し続けられるものなのだと最近は思うようになったんだけど、それがどういう意味なのか、なぜそんな風に思うようになったのかを書いてみよう。
きっかけは幼なじみとの再会
ぼくは故郷に幼なじみの友人がいるのだが、保育園のころから一緒である。
小学校、中学校も同じで、高校は別なんだけど、それでも放課後つるんだりして、思春期の相当長い時間をいっしょにふらふらとすごし、ああでもないこうでもないと語り合った仲なんだけど、それから30年以上付き合いが途絶えて、最近、再び会うようになった。
そして、再会した当初は、昔話ばかりしていたのである。つもりにもつもった歳月があるので、最初の数日は会話が弾んであっという間にすぎた。
昔話がなくなると、今度は、かつてのクラスメートがいまどうしているかという話になって、それで盛り上がって、さらに数日が過ぎていく。
それでもやはり限界があり、いつまでもは続かないのだが、その後もやっぱりおもしろい会話はつづいており、これから先も、どちらかがあの世に行くまで話が途切れることはないだろう。
苦しい時間帯はあった
もともと相性が良かったというのはあるだろう。とはいえ、いくら元親友だといっても、何十年もあっていない人とそうそう会話が続くものでもない。
ぼくらも「昔話に花が咲く」モードから、「自然に会話が弾むモード」へとスムーズに移行したわけではなかった。
途中、ややに行き詰まりを感じた時間帯があったのは事実で、それでも彼はがんばって過去の話をつづけようとしたし、ぼくは先に見切りをつけて
などとあからさまに提案したりもしたのである。
会話に必要なのは「掘る力」
でも、今にして思えば、人と人がおもしろい会話を続けるのに、過去の話は要らないし、べつに未来の話も要らないのである。
必要なのは、現在でも過去でも未来でもなくて、話を「深める力」なのだと今では思う。今風に言うなら「掘る力」だ。
会話を掘る力さえあれば、別に親友でなくても、初対面の相手とでも、ソコソコおもしろい話を続けていける自信が、今はある。
たとえば、初対面の相手がゴルフ好きだとして、ぼくはゴルフをやったことがないけどそれで会話が途切れるなんてことはいまでは考えられない。
そういう場合にぼくがどうするかというと、とりあえず
とか、
などなどとりあえずゴルフについて話してもらっていれば、別にゴルフの知識がなくても、「掘っていける箇所」はいくらでもみつかる。
相手もでゴルファーである以前に、ひとりの人間である。
ゴルフを語りつつも、たのしかったり、かなしかったり、イラついたり、さびしかったり、おもしろかったり、ツラかったりするのは、ゴルフを知らない人間と変わらないわけで、そういうだれでも共感できる部分から切り込みを入れて、もう一段深い所に話しをもっていけばいいだけだ。
そういう糸口みたいなものが、だれの話の中にもは無数にあるのだから、そこを掘っていけば会話なんかいくらでもつづいていく・・ということに幼なじみのおかげで気づくことができた。
掘れるようになったわけ
なんでそういう自信が生まれたのかというと、このnoteを3年以上書いているからだ。
このnoteは書くネタがあろうがなかろうが、とりあえず書くことにしているので、
と思ってから今日一日を振り返る。そこになにかしら切り口を見つけては1記事になりそうなところまで掘っていくわけで、この作業が「相手の話を掘り下げておもしろい会話にしていく」プロセスとほとんど同じなのだ。
同じというより、noteのほうがむずかしい。なぜなら、会話の場合は自分と相手と二人いるので、ネタになりそうなポイントも二人分あるからだ。その点、noteの場合は、ぼくひとりの経験を掘っていかなければならないので骨が折れる。
「それにくらべれば会話なんかいくらでも続けられるよ」と最近は思うようになったのだが、これはYouTubeでもなんでも発信をずーっと続けている人ならきっと共感してもらえるだろう。
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