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プロの情報発信者に求めること

世の中には「情報発信」を商売にしている人たちがいる。そういう人を仮に

プロの情報発信者

と呼んでおこう。

ぼくもそういうプロの情報発信者にさまざまな形でお世話になっているのだが、現代のプロ発信者に何を求めているのかを書いてみる。

結論からいえば、ぼくが現在のプロ情報発信者に求めているのは

分析芸ではなくて選別芸

である。キュレーションの能力だ。

発信者には2種類いる

さて、ぼくはプロの情報発信者を2種類に分けてとらえている。

・一次情報発信者
・二次情報発信者

そして、キュレーションの能力が求められているのは主に後者の二次情報発信者だ。

その前に一次情報発信者についてさっと触れておくと、一次情報とは、直接体験したり取材したりして得た情報のことで、たとえば、イスラム国に潜入したり、ウクライナの戦線の近くまで行ったり、巨大詐欺グループの裏側にもぐりこんだりして情報を得るのが一次情報発信者だ。

自分の足で取材し、カラダを張っているジャーナリストであり、彼らの情報はほかでは手に入らないので、情報のダイヤモンドみたいなものであって、希少価値が高い。その価値は、わざわざ論じるまでもないので、このあたりで切り上げて次に行こう。

問題は、二次情報発信者である。

二次情報発信者に求められるのは削る力

プロの二次情報発信者とは、他人が発信した情報を加工して販売しているプロのことだが、その能力は3つにわかれる。

・収集する能力
・選別する労力
・分析する労力

そして現在最も求められているのが2つめの「選別する能力」なのである。いいかえれば削る能力だ。

なぜなら、今の時代は情報が氾濫しているのでそれをすべて把握できる時間のある人はいないからだ。なのでプロに外注して、大事なものを選別してもらっている。お金を払って時間を買っているといってもいい。

昭和の頃はそうではなかった。いまほど情報が氾濫していなかったので、プロの2次情報発信者に求められる能力は、選別芸よりも分析芸だったといえる。

以上を映画に例えてみたい。

見た映画をすべて論じる評論家はもういらない

映画を作っているクリエイターが一次情報発信者だとすれば、他人の作った映画についてあれこれ発信している人はみな二次情報発信者だ。

その中でプロと呼ばれているのが「映画評論家」と呼ばれる人たちだが、昭和の頃の映画評論家は情報キュレーターではなかった。

あのころは公開される本数もたいしたことなかったし、インターネットも動画配信サイトもなかったので、人々は暇だった。映画評論家は公開されたすべての作品に分析を加えていればよくて、その分析の技が、

淀川長治流

であったり

荻昌弘流

であったり、

水野晴朗流

であったりして、そこが評論家の腕の見せ所であり、いわば「芸」であり、そこがウケていたのだが、今はちがう。

令和の現在、我々がプロの映画評論家に求めているのはキュレーションの力であり、かれらの分析芸ではなくて選別芸である。

これだけ膨大な映画・ドラマの中でどれを見たらいいのか。
どれは粗悪品で、どれが優秀な作品なのか

を選別してほしい。ぼくらは、あふれるコンテンツを選別してもらうことにお金を払っており、そうすることで時間を買っているといっていい。

今の時代、100本の映画を見て、その100本すべてを語る評論家は

もういらない

のである。

削るのが一番難しい

これは映画に限らずあらゆる情報発信に当てはまる。ぼくらがプロの情報発信者に求めているのは、氾濫する情報を削ってもらうことであり、たとえば、プロの情報発信者が1日8時間、週5日間、情報を収集して合計40時間分の情報を集めたとしよう。

それを2時間にまとめる人(20分の一に削る人)より、1時間にまとめることのできる人(40分の1に削れる人)のほうが優秀だし、30分にまとめることのできる(80分の1に削れる人)のほうがさらに貴重だ。

削る能力が高いほど、ぼく自身の時間を節約できるので重宝する。30分でだいじなことがわかれば、残りの39時間30分の人生を別なことに使える。

情報のあふれる今、短く削ってまとめるのが一番たいへんであり、プロにお金を払うのは、まずはそのためである。

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