見出し画像

人を許せるか

認知症の親と向き合っていてつくづく

怒りって不毛だな・・

と思うようになったので、そのことについて書きます。

怒りとは・・

怒りという言葉にとらわれずにもうちょっと広くとらえてみると、たとえば

憤りを感じる

というのも怒りと同じだし

イライラする

というのも似たようなことだし

うっぷんが溜まる

とか

プライドがふみにじられた

だの

やるせない

というのも根っこにあるのは怒りだし

なさけなくて涙が出てくる

とか

不公平に感じる

とか

我慢がならない

とか

遺憾の意を表明する

などなど、表現のしかたはさまざまにせよ、一言で言うなら

許せない!

であって、これらをひっくるめてとりあえず「怒り」と呼びたい。

怒るとろくなことがない

怒りがカラダに溜まるとロクなことがない。

自律神経が乱れて血圧が上がり、場合によっては脳の血管が切れる人もいる。

おなかを壊す人もいれば、胃に穴が空く人もいる。

ぼくは胆石があるんだけど、あまりプリプリしていると、こいつがすこしずつ大きくなってきてやがて七転八倒の苦しみを味合わうことになりそうなのでなるべくなら怒りたくない。

怒りは体に溜めこむのもよくないけど、周囲に発散するのはさらによくない。

人を殴るとか、包丁で刺すとか。そうやって怒りを発散する人もいるけど、ろくでもない。かといって

我慢し続ければいいのか?

と言うと、我慢すれば血圧が上がったり胆石が大きくなったりするので、ぜんぜん良くない。そもそも怒りを感じないのが一番だ。

怒りはしぜんに湧いてくる

とはいえ認知症の患者とむきあっていると、かれらの言動があまりに理不尽なので怒りは自然に湧いてくる。

たとえば・・・と、以下、子供の頃からのあれやこれやを怒りを込めて具体的に書いたのですが、あまりに生々しいので全部削除しました。

それはともかく、「僕の親」と呼ばれている生き物は、現在認知症で、脳みそは終わっているけど、フィジカルはぼくより健康な状態にある。

認知症の人が徘徊するのは今の日本ではよくあることだけど、「彼」の場合は体が丈夫なので歩き回るだけでは済まない。

他人の自転車を盗んで徘徊し、30キロくらい遠方で迷っているところを警察に保護されることを繰り返している。

行動半径が広いので探しようがないし、保護した警察も、徒歩の老人ならパトカーで送り届けるだけでいいのだが、自転車があるのでパトカーでは運べない。

もう1台デカい輸送車を手配して、そちらに自転車を載せて、パトカーと2台つらねて うちまで運んでくる。こういうことがぼくの知っている範囲ですでに8回起こっており、警察からは

大型車両の手配がやっかいなのでこれきりにしてほしい・・

と言われている。しかし、首に縄をつけておくわけにもいかないのでこれからも同じことが繰り返されるだろう。

それにしても、これほど体が丈夫で、アタマが終わっている認知症患者というのは、全国的にもかなりレアなケースなのではないだろうか。

その世話をするためにやむなく故郷と自宅を飛行機で往復する日々なんだけど、1回帰ると1か月も滞在するのでちょっとした引っ越しくらいの面倒くささがある。

そのうえで病院に連れていったり、たまったゴミを片付けたり、トイレを掃除したり、その他の後始末に追われていそがしいわけだが、彼には感謝されるどころか

お前が帰ると気がふさぐ!
お前が帰ると電気代がかかる!
さっさと帰れ!出ていけ!

と連日言われるので、さすがにキレそうになる。

こう書いているだけでも腹が立ってくるのだが、冒頭で書いたようにハラなんか立てても胆石が大きくなるだけでいいことはないので、ふだんは考えない。

今日はnoteを書かなければならないからしかたなく思いだしているけど、ふだんは彼から何を言われても、

「テレビを見てクソをする機械」が音を立てているなあ・・

くらいにしか思っていない。

とはいえ最初からこうではなかった。いちいち腹が立ったものだが、いいことは1つもないので、少しずつ現在の態度を学習していったのである。

相手を許せない

そんな僕に言わせてもらうなら、世の中のもめごとの多くは似たようなものだ。ほとんどは、「相手を許せない」というところから起こっている。

名誉棄損で訴える

とか

セクハラを告発する

とか

敵軍にミサイルを撃ち込む

とか、1つ1つの行動は

悪いやつは懲らしめないといけない!

という立派な正義感にもとづいてやっているのだろうが、本音で言わせてもらうなら、たいていのことって「相手を許せない」だけの話であり、「許せない」と思ってしまえば地獄の果てまで許せないけど、スルーしてしまえばそれだけのことである。

許せないところを許す

許せない相手を許すっていうのは口でいうほど簡単じゃない。それはわかりすぎるほどわかります。

昨晩、フィリピン映画で「立ち去った女」(ラヴ・ディアス 2016)というのを見たけど、3時間48分もあり、普通の映画の倍以上の長さだ。

主人公は冤罪で30年服役した女性で、出所しても人生はめちゃくちゃだ。

濡れ衣を着せた相手に復讐しようと、ピストルを買い込んで執念深くつけ狙うんだけど・・

・・許すってのが簡単なことじゃないのは3時間48分も彼女の行動を見続けていれば伝わってくる。簡単じゃないのはわかります。

とはいえ、「許せないほどのことを許す」のが争いのない世界ヘ向けての最初の一歩であり、許しのない世界で、人権だの、正義だの、民主主義だのといくら正しさを唱えても、一歩も先に進めない。

ずーっと未来のこと

いずれ遠い未来に、争いのない時代がやってくることもあるだろう。そのころには「相手を許せない」という気持ちから卒業した人々が多数派になっているのかもしれないが、そうなるにはまだたぶん800年以上かかると聞いているし、その前に例えようのないほどの苦しみを味合わなくてはならないとも聞いている。

今のところは「許せない」=「正義」だと思っている人が大半なのだろうし、先はとてつもなく長い。

まあ、そんなことはどーでもよくて、このnoteは予約投稿しているので、いまごろは、おいしいものを食べて、いい酒を飲んで温泉に浸かっていることでしょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?