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今の若い世代は繊細

若いころ、ぼくらの世代は「新人類」と呼ばれていた。
いまでは死語になってしまったけど。

マーケティング上の世代区分では、1961年(昭和36年)4月2日から1971年(昭和46年)4月1日生まれまでが新人類と定義されているそうだ。

50代のいまになって振り返ると、自分は旧人類でも新人類でもなく単なる「変人」だったと思えるが、とはいえ、この世代に共通する特徴を持っていないのかといえば持っている。

そんなの関係ねえ

というのがこの世代の特徴だ。スポーツ界を見るとわかりやすい。

谷川真理(1962年)、三浦知良(1967年)、野茂英雄(1968年)、辰吉丈一郎(1970年)、伊達公子(1970年)、葛西紀明(1972年)

ほかにもいるが、共通するのは現役生活が長いという点だ。スポーツ医学が発達して選手生命が長くなったという面ももちろんあるだろう。しかし、それ以上に大きいのは社会のしがらみにしばれない姿勢である。

この世代は、社会のしがらみによって引退に追い込まれることを嫌う。「そんなの関係ねえ」なのである。

たとえば辰吉さんは、日本プロボクシング界がだめなら、ラスベガスに行き、それがだめならタイにわたった。「自分が引退したといわない限りは現役だ」というのが彼の考え方であり、この認識は僕らの世代全体に共通している。

この世界観の負の側面があらわれたのが90年代の新興宗教ブームであり、地下鉄サリン事件だといえる。実行犯の大半がこの世代である。

僕らの世代は、社会運動というものに幻滅していた。
社会を変えるよりも、まず個人の意識を変えていかなければ、というのが共通認識だった。

この点は上に挙げたアスリートにも共通しており、社会がどう思うかではなく、自分がどう思うかなのだという意識が強い。

ぼくも同じで、社会運動に首を突っ込むよりもまず自分だと思っていた。自分の意識を変えるのが先決であり、それをすっ飛ばして社会をどうのこうの言っても始まらないというのがこの世代にベーシックな認識だ。

しかし、そういうアプローチの行き着いた先に「地下鉄サリン事件」が起こる。あれは、ぼくらの世代の敗北感の象徴みたいなものだ。

このことは新人類にとって大きなトラウマになっている。

このnoteに書いているすべてのことも、いってみればオウムのケツ拭きをやっているようなものだ。オウムを反面教師にしながら「まずは意識から」というアプローチを別な方向へ伸ばす可能性を探っている。

さて、今日は昔話を書きたかったわけではなくて、ひさしぶりに親戚の姪っ子たちに会ったという話である。今の若い世代は繊細だという印象があるんだけど、そんなことはなくてずいぶん元気に見えた。

しかし、一見元気そうでも、よく観察するとやはり繊細なのだ。メディアで見聞きする若い世代とおなじ印象を彼女たちからも受ける。0歳から見ているにもかかわらず、知っている子どもたちというより、未知の世代だという印象のほうが強い。

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