見出し画像

たまに「心を閉じたい」日がある

閉じこもりたい

このところ、ふと

閉じこもりたい・・

と思うことがある。念のため言っておくけど「引きこもりたい」ではなくて、「閉じこもりたい」である。

引きこもりたい時の心理&特徴」という記事によれば、引きこもりたい人は、人間関係に疲れているのだそうだが、ぼくは人間関係に疲れていないので関係ない。

そもそも今の生活自体が引きこもりに近いので、改めて引きこもりたいなどと思わないのだ。

「閉じこもり」とは

そこで、「閉じこもり」で検索すると、1,740,000 件ヒットする。豊岡市のウェブサイトには、こう書かれていた。

『閉じこもり』とは、寝たきりなどでないにもかかわらず、1日のほとんどを家の中で過ごし、日々の行動範囲が家の中か庭先ぐらいで、週に1回も外出しない状態を言います。

閉じこもりを予防しよう

閉じこもりとは、「高齢者の行動半径が狭小化し、心身両面が弱っていくこと」を指す言葉なのだそうだ。知らないうちに陥ってしまう状態なので

閉じこもりたい!

と思う人はいないらしいのである。「閉じこもり」と「引きこもり」には、このように大きな差があるのだが、ぼくは勘違いしていた。

世間でも混同されている

自分を棚に上げて言うけど、世間のみな様方はこの違いを、ちゃんとわかっているのだろうか?「Yahoo!知恵袋」には

すべて投げ出して閉じこもりたい
(中略)
どうしたらいいのでしょうか。

という質問があって、色んな人が「ゆっくりしろ」とか「旅に出ろ」とか「スーパー銭湯にいけ」とか「閉じこもるのもよいでしょう」などと回答しているが、ぼくに言わせれば

そりゃ、閉じこもりたいんじゃなくて、引きこもりたいんだろ

という身もふたもない回答になってしまうのだが、そんなことを言っても質問者は幸せにならないと思うので、投稿していない。

心を開かない文章

さて、ぼくは引きこもりたいわけではなく、閉じこもりに陥っているのでもないので、何と呼べばいいのかわからないのだが、あえていうなら

心を閉じたい

のかもしれない。このnoteは毎日書いているわけだが、たまに心を開きたくなくなる時がある。

そもそもブログの書き方には、心を開く書き方と、心を開かない書き方があると思うのだが、ぼくのスタイルは前者である。

心を開かない書き方というのは、客観的論評というやつだ。たとえばアマゾンのレビューなどでもたまに

・・という意味において、著者の主張にも独自の意義があるといえるだろう。

みたいな終わり方をしているのがあるが、ああやって論文みたいに書けば、心を開く必要はない。ただし、この手の文章を読むたびに

お前何さまだ?

と思ってしまうし、やれと言われても、はずかしくてあんなオッサンくさい真似はできないのだ。ぼくが書評を書くなら、

・・というわけで、ぼくはとてもおもしろく読みました。

みたいな感じにどうしてもなる。碩学泰斗(せきがくたいと)ではないので、「自分はこう感じた」という視点を抜きにブログなど書く気にならない。

続けることに意味がある

しかし、たまには黙っていたいときもやってくる。今日がそうなのだが、でも、それをやらない理由というのがあって、これが今日書きたいことである。

今日休まなかったのは、続けることに意味があると思っているからで、なぜかというと

すぐに止めるやつは、どんなに立派なことを書いていてもしょせんきれいごとでしかない

という考えが僕の中にあるからだ。これは実体験に基づいている。

うそくさい奴

もう3年ほど前のことなので、書いてもいいだろう。まだnoteを書き始めて間もない頃のこと、フォローしてくれた人の記事を読みに行ってみたら、すげーウソくせー感じだったのである。内容は、

生きづらいあなたに贈る生き方論

みたいなものだったのだが、一読して、なんともウソくさい。

「あの手この手で集客しよう」という感じが見え見えだったのだが、一見するとエモい書き方なので、だまされる人はだまされるのだろう。かなりの評価を得ていた。

ただし、他人がいいと思うなら、ケチをつける筋合いはないので別にいい。

だが、そのうち、ネタが切れてきたらしく、「ぼくが書いたこと」が書かれているような気がする日もあった。だが、このあたりを気にし始めると、松本零士先生になりかねないので、それも別にいい。

でも消えていった

でも2か月足らずでそのnoteは消えてしまったのである。なので

黙っていてもインチキは消えていくんだな

ということを学ばせてもらった。

ただし、続かない人が全員インチキだと言っているのではないですよ。向き不向きもあるし、続けることが正義でもないし。とはいえ、立派なことを言ってるわりにはすぐに消えるヤツの中にかなりの確率で

インチキ野郎が混じっている

ということは言っていいのではないか。

1回や2回ならきれいごとはいくらでもかける。だが。時間をかけなければ示せないこと、続けることでしか表現できないもの・・がこの世にはあると思うので、今日も書きました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?