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歴史の持つ「静けさ」について

昭和の小説、それも昭和初期の小説を読むと、火事場のシーンが出てくることが多い。おもしろいのは、登場人物たちがいっせいに火事場へ向かおうとすることだ。

それまで問題を抱えて言い争っていた人々が、いったんもめごとを中断してとりあえず火事場へ向かうのである。「行くか、行かないか」などという選択肢はなく、「行く」の一択だ。

なぜそうなるのか?ということを考えてみたけど、たぶん当時は今より刺激に乏しかったからではないか。火事は、たいくつな日常に降ってわいた大事件であり、しかも高みの見物ができる。

大勢の人たちと、大事件をリアルタイムで共有したいという思いもあっただろう。つまり、火事場は、刺激を共有できるまたとない機会だったといえる。

さて、いまでもそういう人が多いのかどうかわからないし、それがいいとも悪いとも思わないのだが、ぼく自身は火事場にはいかないタイプである。

火事だけではなくて、「今晩、100年に一度彗星が地球に接近する」というような場合でも、夜空を眺めに行かない。べつにあまのじゃくなのではなくて、単にめんどくさい。

外部からの刺激をあまり求めていないのではないかと思う。リアルタイムで共有したいという思いもあまりなくて、突き詰めて言うと、やや内向的なのである。

「やや」と言ったのは、火事場に向かう人々を見物してみたい気持ちはあるからだ。ついでにちょっと声をかけてみたい気もする。さりげなく近づいていって

いやいや、たいへんですねえ

などと話しかけて、神妙な顔つきで答えてくれる様子を見てみたい。そういう欲求があるので、高みの見物をしている人たちよりも自分が善良な人間だとは思えない。

とはいえ、基本的には騒ぐのが好きではないのでたぶん内向的なのだ。

内向的な人は、世の中でたてつづけに大事件が起こったりすると刺激が強すぎて、心が疲れてしまう。どこか静かな場所へ行って心を休めたいと思う。

そういうときには、小説の世界に没頭したり、数学を勉強したり、哲学書を読んだりするのがいい。あわただしい現実を離れて心が休まる。

ところで、先日録画しておいたNHKスペシャルで太平洋戦争の番組を見ていたんだけど、意外なことに心が休まってしまった。

戦争の話なので悲惨なフィルムも出てくるし、迫力のある画面に引き込まれるのだが、それでも心が休まったのである。ウクライナ紛争のニュースを見ていたらこういう風になることはないので不思議だ。

どこがちがうのかを考えてみたんだけど、たぶん歴史になっているかどうかだ。ウクライナはこれからどうなるかわからないので、火事場を見ているような感じがある。

一方、太平洋戦争はどれほど悲惨でもすでに終わったことであり、どこかしら時が止まったような感覚に引き込まれる。現在のあわただしさを逃れて心に静けさがやってくるのだ。

加えて、「本能寺の変」をリアルタイムで共有することはできないように、歴史をひもとくことはソロ活動だといえる。つまり、流行りのソロキャンプの系統に属している。

ぼくはとくに歴史を好むタチではない。「歴史=過去の時事問題」だと思っていたので、そのあわただしさを苦手に感じていた。

しかし、歴史は時事問題とよく似た情報を持ちながらも、時事問題のあわただしさとは対極にあるものだとわかって不思議な気分だ。歴史好きな人は、もしかするとこういう静かな雰囲気を好む人々のではないだろうか。

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