死ぬときは「ただの人」
人は若いころ「ひとかどの人」になろうとするが、年を取るにつれてだんだん「ただの人」へと成り下がっていくのではないだろうか。そういう重力みたいなものが存在しているのではないかと、ぼくにはおもえる。
ここでいう「ただの人」とは、何の特徴も持っていない人ということだ。たとえば、むこうから犬が歩いてきたら、
と思うでしょう。そしてネコが歩いてきたら
と思うはずだ。それ以上のことはとくに思わない。それと同じで、むこうから「ただの人」が歩いてきたら、犬でもなくネコでもなく
と思うだけである。人間であること以上になんの社会的価値も持たない人がただの人である。よく
と言われるけど、あれだけ必死に当選を目指すのは、「ただの人」になるのがよほど恐ろしいのだろう。
政治家に限らない。人間が小学校や中学校や高校や大学に通って勉強したり、甲子園やインターハイに出場したり、SNSでフォロワー数を増やしたり、会社で出世したり、会社経営者になったり、アルマーニを着てフェラーリに乗ったりするのは、みな「ただの人」という引力圏からの脱出を試みているのだ。
でも、成層圏を飛び出したロケットがいずれ落下してくるように、人はいずれただの人に戻って死ぬ。
1999年に文芸評論家の江藤淳氏が、カッコいい遺書を残して自殺した。
ぼく流にわかりやすく書き直せば次のようになる。
「自分は江藤淳である」というプライドが、ただの人として生きることを拒絶したということだ。「死ぬまで江藤淳であり続ける」には、抜け殻(=形骸)を殺すしかなかった。
このあたりの彼の心境を、同じく文芸評論家の吉本隆明さんが、次のようにわかりやすく説明していた。
正確な文面は覚えていないけどだいたいこんな感じだったと思う。とはいえ、これは評論家だけのハナシではない。岸田首相だって、いずれヨボヨボになって病院に入ったら
とは呼ばれず
になるのだ。
そしてエライ人だけにかぎったことでもない。ごく一般の社会人も遅かれ早かれ「ただの人」になるのだが、なりきれない人が結構いる。
いちども無職や無所属を経験していない人。小・中・高・大学・社会人と途切れることなく社会的な身分をもって生きてきた人、つまり履歴書に穴のあいていない人は、ものごころついてから一度もただの人になったことがないので免疫がない。
こういう人が定年退職後にいきなりただの人になると、江藤淳のようにがっくり来やすい。そういう人には、町内会の役職でも何でもいいから与えてあげると、それだけで「ただの人」を免れて元気になる。
ちなみに、「ただの人」と「無敵の人」は、失うものがないという点で似ているが、しかし正反対のタイプである。
「ただの人」は、自分がただの人であることを受け入れているけど、無敵の人は、自分が「ただの人」であるにもかかわらず、そのことを認めない。
江藤淳が「ただのおじいちゃん」になれなかったのは実績があったからだけど、無敵の人に実績はない。無敵の人は、総理にも部長にも経営者にも文芸評論家にもなれなかった人であり、生まれてこの方ずーっとただの人なのである。
しかし、それでも自分はただの人ではないと思いこんでおり、実力を出せなかったのは社会が悪いのだと考える。そういう叫びが無差別犯罪となって表れる。
ところで、ぼくが自分がただの人だということにうっすらと気づきはじめたのは、昨日書いた高校の黒歴史時代なんだけど、はっきりと自覚したのはその翌年のことだ。
そのときぼくは大学受験で宅浪していた。宅浪生は予備校生とは異なり、社会的な身分はゼロであり、見た目は「子供部屋おじさん」と変わらない。
部屋にこもっていれば自分がただの人だという自意識に悩まされることはないけど、ぼくの日課は海岸を散歩することで、歩きながら英単語を覚えたりしていたのである。そして夏がくると海岸は若者でにぎわった。
ところがある日、いきなりだれもいなくなってしまった。どこまで歩いてもガランとしている。理由がわからなかったけど、しばらく歩いていてようやく
と気づいたのだった。みな学校へ帰ってしまって残ったのはぼく一人だった。ぼくも前年までは「始業式の日の海岸」にいることなど想像したこともなかったし、浪人しなければ一生見ることはなかったかもしれない。
でもあのときふと
みたいなものを感じてしまい、そして、じぶんの人生はこの先も、こんな風になるのではないかなあと思ったのだった。
実際、いまでもずーっとあのときの気分のままで生きており、まともな社会人になったと感じたことは一度もなく、ずーっと無価値のただの人である。
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