介護の未来も出口が見えない。
「川崎老人ホーム3人転落死」事件で、昨日、被告が上告を取り下げて死刑判決が確定した。
この事件は、高齢者介護の根本にかかわる問題だったことと、物的証拠がなく、被告が無罪を主張していたことの2点が世間の注目を集めていた。このままなら最高裁まで行くと思われていたが、被告が上告を取り下げていたことが昨日わかった。これで死刑確定だ。
被告はメディアに対し
とのコメントを出している。
ぼくはこのコメントを読んで、言いようのない気持ちになった。言いようがないのはまさに言いようがないので、それ以上になにも言えないのだが、あらゆることに対してもやもやしたというか、まずは被告の言葉のあいまいさにモヤモヤしたし、冤罪の主張にもモヤモヤしたし、介護現場での殺人というものにモヤモヤしたし、認知症というものに対してモヤモヤしているし、そもそも死刑という制度そのものへのモヤモヤもある。
はっきりいえることは1つだけだ。この事件にかぎらずだが、死刑判決が出るようなあらゆる凶悪事件に際して、
ということである。
死刑という不条理
その意味では、凶悪事件が起こるたびにモヤモヤしっぱなしだ。いい加減疲れたけど、これからも世間では凶悪犯罪が起こり続けるだろうし、裁判所は相変わらず死刑判決を下すだろうし、そういうことが延々と続いていく。
それがわかっていても、事件を起こす人は起こすし、人を殺した人は国家に捕まえられるし、そして「ぼくらの総意」によって死刑という「殺人の業務委託」が行われ続けるわけで、因業な歯車は回り続ける。
死刑が確定するたびに
と思う。税金を使ってまた一人縊り殺すことになってしまった・・。
ただし、仕方がないとも思っているので、死刑制度には賛成でも反対でもない。人道的見地からこうすべき、とか、被害者の気持ちを考えればこうあるべき、とか、そういう「べきべき」した意見は何一つない。
すべては文学として
そもそも死刑にかぎらず、ぼくは社会のあらゆる問題に対して「意見」などというものを持ちあわせていない。
国会はこうあるべきだとか、与党はこうすべきであるとか、自衛隊はこうあるべきだとかそういうおやじクッサイ意見は何も持っていないし、持ちたくもない。
すべては文学的な主題でしかなく、死刑のことも「巨大な不条理」として、文学的に受け止めている。僕には人が人を殺すのを止めることができないので
と思っており、その犯人を捕まえて縊り殺さねばならない一国民として
と思っている。それだけである。
クソコメントがイヤ
まあ、以上のようなことは、すべての死刑判決に対して毎回思うわけだ。
すでに書いたことがあるので繰り返さないけど、高校時代に読んだ元死刑囚の書いた本がトラウマになってこのことを考え始めた。そして、オウム犯の大量処刑を経てそのトラウマが深まり、現在に至る。
トラウマになっているので、いやだなあと思ってもスルーできないんだけどさらに何がイヤかと言うと、こういうニュース記事のコメント欄に必ず入っているタイプのコメントがまたイヤなのである。たいてい、
みたいな、荒れたコメントが続々と入るのが普通なのだ。まあ・・コメント欄にこんなことを書く輩は、私生活では虫も殺さないような顔をしてニコニコしているのだろう。そうやって溜まった日々のフラストレーションをコメント欄にぶつけて自慰にはげむクソレベルの連中なのだろう。
などと思いつつ、また読んでしまう(笑)。
今回は様子が違う
で・・今回もいやだなあと思いつつ、コメント欄をながめていたのだが、なんだか様子が違う。クソコメントが1つもない。
こういう人のコメントが続々と入っており、大方の人が被告を気の毒に思っており、介護現場の過酷さを訴えている。
とか
みたいな意見ばかりだ。
ぼくが読んだ時点で640件のコメントが入っていて最初の70件だけ走り読みしたのだが、上のような同情する意見が大半で、クソコメントはゼロ。
「ひどいことをしたのだから極刑は当然だろう」という意見が一つあり、「介護の問題と、冤罪の問題は分けて考えるべきだ」という理屈っぽい意見が一つあるだけで、残りの68件はすべて介護現場の過酷さを訴え、被告だけの問題ではないとしていた。
死刑囚に対するヒステリックな罵詈雑言がひとつもなかったのは、異様だとしか言えない。それが何を意味しているかというと、もちろん1つには日本人ってなにかと日和るので、全体がそういう一色で埋まってしまったという面ももちろんあるだろう。しかしそれだけではないはずだ。同情的なコメントがこれだけ多いということは、
ということだと思う。ぼくも親が認知症なので、わがままな本人とそれに振り回される現場は他人事ではない。
死刑制度も出口のないトンネルみたいな世界だが、介護の未来も出口が見えない。
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