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一隅を照らすだけ

久しぶりにパートの仕事をしようと決めて、昨日面接に行ったらあっさり採用になった。

来週から働くことになって、すんなり決まって嬉しい。すんなり決まるときって、本当に展開が早くて滞ることなく決まっていく。

決まらないときは、何日か待たされたり、自分もその間「上手くいかないかも〜」とモヤモヤすることになるんだ。

恋愛でも同じだよね。うまくいかない人は連絡遅くてモヤモヤするし、うまくいく人は連絡も早くてまず悩むことがない。

お互いの関係がちょうどいいから無理がないんだ。


でも、例えば自分が好きになった人や、自分が「こうなったらいいな」と大きな期待を寄せていることって、自分発のワクワクだからこそ、そこに意味があるんだと思いたくなる。

個人的な感情は、その個人にとってはとてつもなく大切だけれど、端から見たら「だから?」というどうでもいいこと。

自分が主人公の世界では、自分の想いや考えは大切だけれど、誰もが自分の世界の主人公であって、他人から見たら脇役に過ぎないのだから、主観と客観をバランスよく保たないと、「なぜこの人は私のことを理解しないのだ(私は主人公なのに)」と腹立たしくなる。

自分の想いや考えを重視しすぎると、流れない所を無理に流そうと我が強くなり、他人と噛み合わなくなるんだ。


スムーズに流れていくところは、他人の想いと自分の想いが交差するところ。

そうでなければ、個人的にどんなに思い入れがあったとしても、決して物事は進まない。

手に入りそうで手に入らないと誤解すると、人はそのものが余計に欲しくなり、執着してしまう性質があるけれど、手に入るか手に入らないかは見極める勇気がないと長い間停滞したままもがき苦しむことになるんだ。


年齢を重ねるにつれ、経験が増えることから、手に入るものと手に入らないものの見極めがだいぶ上手くなったと思う。

そして、自分にとって本当に必要なものが何か、だいぶわかるようになってきた。私にとって必要なものは、それほど多くない。

「必要」という執着がだいぶ薄れてきたのかもしれない。


私にとって本当に必要なものは、必ず手元にやってきてくれた。

それは無理することなく、自然に来てくれる。

それを「好き」とか「嫌い」とか、個人的な凝り固まった考えや感情で排除せず受け取ると、最初はそこに葛藤があるが、最終的には自分にとって一番いいものだったことを理解する。

自分の感情や考えを大切にしなさい、自分は何が好きなのか、自分は何がやりたいのか、自分は…自分は…と、自己を探究することばかり考えてきたけれど、自分がどう思うか、どう感じるか、何が好きか、そこにそれ程拘る必要は全くない。


むしろ、自然体でいて頑張ることをやめて、なんでもない自分でいて、来たものを受け取ることを意識した方がいいのかもしれない。

自分に本当に必要なものは必ずやって来るから、「これがいい」なんて限定しない方がいい。

考えは柔軟に、スムーズに流れる方へ流れてみるのがいいと思う。


「こうでなければ」「私はこうしたい」という拘りが無くなったら、与えられたもへの感謝が大きくなった。

そして、大きな何かを成し遂げる必要はなくて、一隅を照らせればいいと思うようになった。

「一隅を照らす」という言葉は天台宗の最澄の言葉であるようで、片隅の誰も注目しないような物事に、心を込めて取り組むということだ。

私ができることは小さいけれど、その小さなことに愛を込めて、与えられた場所で小さく咲くことに心を込めよう。


自分の気持ち、衝撃・欲望は当てにならない。

ワクワクしたことをやっても、それはただワクワクで完結していて、その先が展開するかはわからないのだ。

ワクワクしたことは全て上手くいくというのは誤解だ。

頑張って苦しんで何かを成し遂げることだけが美しいわけじゃない。

肩の力を抜いてリラックスして頑張らない自然体な自分で、起こることを愛し、起こることに力を注ぎ一隅を照らす、そんなにミニマルで軽やかな生き方もありだと思うんだ。




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