私が会社員を辞めるわけ(2020.3.5追記あり)

こんにちは。永井友梨佳といいます。

noteはじめてみました。


先日、人生初のコーチングを受けてきました。

なかなか凄い先生で、もちろんたくさんの方のコーチングをされてきた方なのですが、その先生が私を分析する中で、「変わってるね」と何度か言われました。

「変態」は誉め言葉だと思います。

また、自分でも、変わってるなあという自負はありますし、今まで31年間、割と波乱万丈&紆余曲折な人生を歩んできていると感じます。

人生経験というにはまだまだ未熟者ですが、自分のこの経験を活かして、なにか文章をしたためたいなあと思い、noteをはじめてみました。

何卒、よろしくお願いいたします。


さて、本題に入る前に、
自己紹介がてら、簡単に今までのわたくしの人生を振り返ってみましょうか。

簡単に箇条書きでいきますね。


1988年 横浜で生まれる

1~2歳で、父の実家のある鳥取県米子市にお引越し(横浜の記憶はありません)

5歳くらいでエレクトーンを習い始める

その後、鼓笛隊クラブ、少年少女合唱団、ピアノ、吹奏楽部(オーボエ、マーチングではバスドラム)など、たくさんの音楽経験を積む

高校生になり、なんとなく音楽の道に進みたいなあと思い始める

高校の音楽の先生に、「あんたはオーボエはだめだから、歌をやりなさい」と言われ、高2で声楽を始める

高3で京都市立芸大 声楽専攻を受験→不合格→浪人決定(1校しか受験しなかった)

浪人中の1年間、京都の歌の先生のもとに月1で通い、あとは実家の電機会社でアルバイトをする

19歳 受験→合格 晴れて京芸生になる

大学入学後、周りの演奏レベルの高さに衝撃を受ける。まさに井の中の蛙。自分の演奏に対して自信喪失し、あがり症になり、本番や試験で力を発揮できなくなる。実技試験では、いつも平均点以下の劣等生だった。

21歳(大学3年)オーケストラをバックに歌う機会があり、極度のプレッシャーの中なんとか歌い切った
→この経験から少しずつ自信をもてるようになる

22歳(大学4年秋) 憧れていた京芸の大学院を受験→不合格

同じ年の冬 大学生活の集大成・4回生オペラの本番前、緊張しすぎてトイレでリバースし、周囲がかなりざわつく(あがり症は健在)
本番はなんとか歌い終える。

就活は一切しないまま、大学卒業

アルバイトを掛け持ちしながら、来年の大学院受験を目指す。

23歳 2回目の大学院受験→不合格

24歳 3回目の大学院受験→不合格

計3回の大学院受験不合格のダメージから、歌うことが全く楽しくなくなる
歌の先生や両親にも相談し、一旦、歌から離れることに決める

25歳 精神力判断力もろもろズタボロの状態で、療養する気持ちで京都から実家の鳥取に帰り、実家の電機会社になんとなく入社する

周りからは「跡継ぎ」として見られることに多少違和感を感じつつ、全くわからない電機の仕事をとりあえずがんばる。毎日作業着を着て、配電盤の試験をしたり書類を作ったり。

26歳 ヨガに出会う。メンタル面・フィジカル面でたくさんの気づきを得る。⇒その後の歌にも良い影響を与える。

27歳 長く闘病中だった母の癌が進行する。
このころ、母の勧めもあり歌を再び始める。復帰ステージは、友人の地元町内会での演奏会。

28歳 母が癌で亡くなる。
母を亡くしたショックと、仕事を続けることへの迷いから、2か月ほど休職する。

休職後、来春から東京の取引先の企業へ出向に行くことを決意。
また、このころ地元での演奏の機会にも恵まれる(ミニリサイタル、病院・専門学校等での訪問演奏)

29歳 東京の企業で働きだす。

東京で仕事をする中で、自分の中での底つきを経験。
「もういい。野垂れ死んでもいいから、やりたいことをやる」という覚悟を決め、転職を決意。

30歳 父親と話し合いをし、2020年2月末をもって退職することに決める。
また、このころにパフォーマンスバンクと出会い、東京での演奏活動を始める。仕事を続けながら、月1ペースで老人ホームへ訪問演奏や演奏会コーディネートに訪れる。

31歳 毎日の辛い仕事を耐えながら、3月からの新しい生活の準備を進めている ←イマココ!!


うーん、簡単に自己紹介を、と思いましたが長いですね。。また、ちょいちょいディープな出来事も起こっております。はい。
改めて振り返ると、なんていうか、よく乗り越えてきたよ…自分…


では、次は本題の、なぜ仕事を辞めることにしたか、というお話です。
私は、来年2月末をもって、今勤めている会社を辞めます。そして、音楽でフリーランスになります。
理由は4つあります。


1.誰のために働くのか


そもそも、家業である電機会社のことにはまったく興味はなく、歌を歌えなくなって→なんとなく入社してしまったので、入社2年目くらいから「仕事、楽しくなくね?」という気持ちは常にどこかにありました。

でも、実家の会社ということで「親や親戚からの期待に応えなきゃ…というかこの立場で入社して…今更辞めれんわな…」という思い込みから、辞めるなんて到底出来ないものだと思っていました。

その思い込みが崩れだしたきっかけが、母が亡くなったこと。

その当時、日常の中で、私は母が一番の話し相手でした。

仕事で辛いことがあっても、実家に寄って母の手料理を食べながら愚痴を聞いてもらったら、心が楽になってまたがんばれていました。

なにより、私が定職についていることを一番喜んでいてくれたのは母だった。

母が「ちゃんと頑張って仕事して偉いね」とほめてくれることで、がんばれていました。

子供みたいだけどね。お母さんの誉め言葉は本当に心強いんだ。

でも、その母がいなくなってしまった。

母がいなくなったら、仕事もなんのために頑張ってるのかわからなくなってしまった。

ここで「自分のためではなく、だれかのために働いていたのかも?」ということに気づいたんですよね。

母のため、父のため、期待してくれる親戚・同僚のため。

そこに「自分のため」が全くない。

もちろん、だれかの為に頑張るのはすばらしいことだけど、その前に自分のための人生だよなあ~

自分の人生なんだから、自分のやりたいことは自分で決めなきゃできない、という、まあ至極あたりまえのことなんだけど、それに気づけていませんでした。


2.底付き体験をしたこと


自己紹介でも書きましたが、母が亡くなったあと、休職をして、私は出向で東京で働くことを決めます。

なぜ出向をすることにしたかというと「身内ではなく、外部の評価を受けるため」

「仕事楽しくない」ということはわかっていたのですが、当時の自分は、どうも辞めるまでの決断はできなかった。

親の会社なので、仕事の評価をするのも親や親戚。「仕事が楽しくないのは、自分の仕事を身内に評価されているからじゃないか。他人に評価してもらったら、やる気が出るかもしれない」と思うわけです。

そこで、東京にある取引先の会社に出向します。

ですが、結論から言うと「誰に評価されるかは関係ない。単純に、今の仕事に自分は全く興味がない」と気付きました。

遅!(笑)

そして、出向先で仕事をする中で、底付き体験をしました。

詳細は書きませんが、普段はベッドに入ったらすぐ爆睡できる私が、悔しくて悲しくて情けなくて、夜何時間も眠れない、といった出来事がありました。

枕が涙でびちょびちょになって、鼻水も出まくってティッシュの山を作りながら「なんやこれ。こんなことはもう二度と経験したくない。全然楽しくない。もう野垂れ死んでもいいから、好きなことをしたい!!」と強く思い、そこで、仕事を辞める覚悟ができました。


※話は変わりますが、「底付き体験」というのは依存症の方の回復までのステップとして使われる用語なんですね…(知らなかった)


3.誰も責任をとってくれない


底付き経験をしたときに、もう一つ思ったのが「人の期待通りに生きたとして、じゃあ自分はどうなるんだ」ということ。

人の期待に応えて、自分のやりたいことを出来なかったとしても、だれも、私の人生の責任をとってはくれません。

「やりたいことが出来なかったじゃん!」と人を責めることはできない。

それは、親でも、親戚でも、お世話になった人でも同じ。

やりたいことをやるなら、自分で行動するしかないんですよね。

もちろん、人の期待に応える生き方が悪いわけじゃありません。

それが自分にとって喜びになるなら、とても素敵な生き方だと思う。

でも、私はそうじゃなかった。

なら、自分のためにやりたいことをやるしかないよね。

ほんっとに当たり前のことなんだけど、家族経営の会社の中(狭い世間の中)にいると、本当にみえなくなっていました。

環境って大きい。


4.やりたいことがみえてきた


やりたいことは、大きく言えば音楽なのですが、
私は大学院受験に3回失敗して、そこで一度大きな挫折を味わっています。

今思えば、当時は「大学院オペラに出たい」という憧れと、「大学院に行って、その後はコンクールで賞をとったり評価されて、プロの歌手として成功することが全て。それ以外の道はだめ」という思い込みが強くありました。

その道は挫折したわけだけど、今思えば、自分が本当にやりたいことではなかった。

それに気づけたのは、病院や専門学校で演奏した経験をしてからです。

病院の入院患者さんとか、専門学校の生徒さんとか、普段は生演奏に触れる機会の少ないひとたちに生演奏を届けて、喜んでもらったり、新たな発見をしてもらえたことがとてもとても嬉しかった。

普通のコンサートホールで演奏することよりも、何倍も嬉しかったんですよね。

「クラシック業界でプロになるのではなくて、もっと生活の中の身近なところに音楽を届けたい」
私のやりたいことは、こういうことなんだろうな、となんとなくイメージが湧いてきました。

そして、東京でパフォーマンスバンクと出会えたことも大きい。

自分の本当にやりたいことが見えてきたので、仕事をやめる決断の後押しにもなりました。


以上、4ステップで仕事を辞める決意を決めたわけでございます。

回り道したなあ~(笑)

なんで回り道をしたのかについては、最近大学生たちと関わるようになってわかってきました。多くの大学生は、就活のタイミングで自分と向き合って、自分のやりたいことや将来の姿をよくよく考えるんだね(知らなかったよ…)

私が大学生の頃は、周りはほぼ就活をしていなくて、それにつられて周りの考え方に流されていました。本当に自分がしたいことを考えたことがなかった。むしろ、「こうなるべき」と思い込んでいたことが本当に多くて、大学院を目指したのも今思えばそうした固定観念からだったなあと思います。

「環境」って自分にとても大きな影響を与えるもの。狭い環境にいると、その中の価値観が自分の価値観だと錯覚してしまう。でも、世界はもっともっと広いし、色んな価値観の人がいる!!
私は、環境を変えることで気づくことができました。東京に行く決断をして、本当によかった。

でもまあ、回り道も悪くなかったよ。
この経験がだれかの生きるヒントになればとても嬉しいなあと思います。


これから、音楽に関すること、仕事のこと、いろいろ書いていきたいと思います。

例えば、これからどんな仕事をしていくか、とか
あがり症をどうやって克服したか、とか。色々書きたいことがあるのです。

今後もどうぞどうぞよろしくお願いいたします。


2020.3.5追記※ 私が本名をさらけ出して書いている以上、誤解を招いてしまってはよろしくないので、以下追記します。

まず、出向先の会社の皆様、実家の会社の皆様ともにとても良くして頂きました。出向先では、営業経験のなかった私に一から仕事を教えて頂き、出向先をはなれるときも本当に温かい言葉を沢山もらいました。実家の会社でも、絡みづらい立場の人間なのに、みなさん本当に温かくて、変に気を遣わずに接して頂いていました。なかなか辞めれなかったのは、周りの皆さんが優しくしてくださってたのもひとつあるかも…

あと、父から強制的に「会社を継げ」と言われたことは一度もありません。大学でも好きなことを学ばせてもらったし、この会社で仕事を続けるかどうか悩んでいるときも、そりゃあ少しは対立することもありましたが、話し合いを重ねて私の考えもわかってくれて、最終的には私のやりたいようにしたらいい、と理解してもらえています。本当に恵まれているなぁと思います。

出向先・実家の会社のみなさん、そしてお父さんにも、本当にありがとうといいたいです。あとは、期待に応えられず申し訳ない。でも、迷いは全くないです。これからは、自分で決めたことを、自分の責任で進んでいきます!

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