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祈り・藤原新也展

寒い冬の雨の中、世田谷美術館の藤原新也展を見に行った。
名前を知ってはいたけれど、活動や作品はあまり知らなかった。なんとなく先鋭的なイメージがあったので、ギトギトとした世の中を鋭く切り取るようなジャーナリスティックな写真なのかな、と思いながら訪れた。

世田谷美術館の展示室への長い廊下を通って最初にあったのは、昼間にも関わらず、静まり返った東京の道路の景色、それはコロナで社会が完全に止まってしまったときのもの。そして早朝に咲き始めた蓮の花、「死ぬな、生きろ」の書、小さなマッチの火を消えぬように守る老人の美しい手、ガンジス川の横で満ち足りた表情で亡くなる人の姿・・・

書と写真、この空間、素晴らしかった

このまま、うっかり、すべての写真についてなぞり書きするように書いてしまいそうになる。なぜなのか。不思議だが、藤原新也という他人が撮った写真なのだが、とった瞬間のその空気、感情がすべてダイレクトに伝わるから、まるで自分た体験して撮ったかのように紹介したくなるのかもしれない。そんな力が彼の写真にはあるようだ。神様みたいな視点で物を見ているのかもしれない。それが私の中にも降りてくるかのようだ。

とにもかくにも藤原さんはギトギトした世界中の現代を切り取ってきたぜというような写真家ではなかった。もっと穏やかで、あらゆる世界に対してオープンに正直に暖かく寄り添っていく、そんなお坊さんあるいは治療家のような感じがした。彼は実際、写真を通じて「整体」をすると語っている。あるいはカウンセリングしている、とも。体は触らないけど写真で見つめていくことで被写体となった人たちと関わり、何かその人を、より優しい、楽な、暖かい方向に変えていくこともする。愛のある視点、視線、言葉がけ。その結果としての、藤原さんの思い出のような写真たちを私は見ている。

社会運動である香港の雨傘運動も、狂乱の渋谷のハローウィンも、
本人が体を張って撮る。命をもって生きる人の姿を見つめる目は同じだ。

アーティストという存在の可能性についてよく考える。「作品」を通して人の感性や感覚に切り込み、変容を促す。しかし、藤原さんの場合、藤原さんという「生き方」や「心」が作品なのかもしれない。写真を媒介に地球を這いずり回り、人に語りかける。それは、まるで祈りを捧げながら世界中の土地を人を少しずつ耕しているようだ。「少しでも豊かな実がありますように」と。大量の写真から、謙虚で真摯な世界への対峙の姿勢と、その継続が心に残り、タイトルと内容の一致に深く感動した展覧会でもあった。

「祈り・藤原新也」展
世田谷美術館
2023年1月29日まで
https://www.setagayaartmuseum.or.jp/news/entry.php?id=nw00677

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