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走るカオス、インドの列車にて 《前編》

インドの電車といえば、カオスなことで有名である。電車の「上」に溢れるように人が乗っている、電車の中にも人がぎっしり乗っている、財布や貴重品を盗まれる、線路に牛がいるなど、とんでもエピソードの宝庫だ。遅延だって当たり前で、むしろ時間通りに来ることのほうが珍しいとも言われる。

だけどもそんなインドの電車もじつは日々進化しており、なんと今ではアプリひとつでチケットの予約・管理ができる。紙に印刷する必要もなく、ただアプリの画面を見せればOKだ。3年前、チケットひとつとるのに小一時間かけて現地の旅行代理店を訪れていたことを思うと、これはものすごい進歩。

しかもなんとこのアプリ、電車の現在地までわかる。なんて素晴らしい。

そんな最先端アプリを駆使して、大好きだったピンクシティ・ジャイプル から、ブルーシティと呼ばれるジョードプルまで移動することになった。


・・・


乗車当日、案の定電車は遅れていた。

1時間の遅れ、とのことだったので待合室に入った。昨日撮った写真のセレクトでもしようと思い、パソコンで作業をはじめた。

念のため、ちょくちょくアプリを開いて現在地をチェックする。だけどもなんだか様子がおかしい。30分前にチェックしたときから、列車の位置が変わっていない。そんなことあるだろうか。

しかも、駅の電光掲示板には「4番ホーム」と書いてあるのに、アプリには「5番ホーム」と書かれている。どっちが正解だ?

なんだか胸騒ぎがする。急いで待合室を出た。そのときだ。

5番ホームに長い長い電車が入ってくるではないか。

しかもその電車を、人々が追いかけている。手すりにつかまり飛び乗っている。まるでミス・サイゴンのヘリコプター脱出場面のよう。もしかしてこの電車、入ってきてるのではなく出発してるのか?

急ぎたくても20キロの荷物を抱えているので思うように走れない。階段を越えてやっとこさホームにたどり着いたけれど、肝心の電光掲示板は消えていた。

「この電車はジョードプル行きですか?」近くの人に尋ねるけど、英語が通じないのか急いでるのか相手にしてもらえない。そのあいだも電車はゆるゆると進んでいる。

インドの電車は予約必須のため、乗るべき電車を逃すとけっこう痛い目にあう。この電車がジョードプル行きなら、何がなんでも飛び乗らなきゃいけない。だけどもし違ったら?私はどこへ行ってしまうんだろう?まるで映画「LION」の世界じゃないか。「ただいま」に25年かかってしまう。

あたふたしていたら、電車はゆっくりと止まった。え、普通に止まるやん。みんななんであんな必死につかまろうとしてたんだろう。ぜんぜん意味がわからない。さっきまで走っていた人々は、「は?追いかけてませんでしたけど?」という顔ですんっとしている。

とはいえまたいつ出発するかわからない。
「ジョードプル?」とだけ聞くと、うんうんとまわりが頷いたのでえいやと車体に乗り込んだ。

電車の中でも「ジョードプル?」と聞いてみた。先に座っていた乗客たちもうんうんと頷く。どうやらこの電車で正解だったらしい。なによ、あのアプリまったく信用ならんやん。腹立たしい気持ちでふたたびアプリをひらくと、電車はまだ前の駅にいると表示されていた。もう二度と信じないぞ。

乱れた息を整えながら細い通路を通り、自分の席を探した。私の席番が書かれたシートには、すでにインド人の家族が座っていた。サリー姿の若い母親と赤ちゃん。父親はもりっとしたリーゼントにサングラス。シャツからはゴツめのアクセサリーとタトゥーがのぞいている。頭の中では、「組の方」という言葉がネオンのように明滅している。

生唾を飲み込みながら、ああ、そうだった、と思い出した。ここはインドなのだ。インドの旅が、アプリひとつでそんなに簡単にいくわけがないのだ。

これからジョードプルまで6時間。はて、どうやって過ごせばいいんだろう。


立ち尽くす私を乗せて、電車はゆるやかに動き出した。


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