【自分語り】単に上を目指せというのはあまりにも無責任じゃないのか
今回は地理談義から離れて少々、大学受験・大学生活について語ろうかなと思います。
「君は、第一志望の○○大学はA判定なんだからもっと偏差値の高い△△大学を目指したらどうなんだ」
と言われたことはないでしょうか。中の人はよく担任に言われました。ずっと目指していた大学がほぼほぼA判定だったため、三者面談とかでごり押しされることもしばしば.....
まあ、こういう教師というのは、生徒の人生よりも学校の合格実績をより映えるものにしたいという一心で指導しているのが透けて見えます。
実際、より偏差値の高い大学への合格実績がある方が生徒獲得や学校のブランディングに有利になりますからね。
よくよく考えれば、生徒の目指している学校が余裕で合格圏内に入っているのなら、「この調子で頑張れ」と肩を押すだけでとどめるのが生徒の人生を思っての指導なのでしょう。
確かによかれと思って、「君の学力じゃこの大学はもったいない」と言っている。というのも理解できます。一般的に偏差値の高い大学の方が卒業時の平均年収は高い傾向にあるから。
ただ、上を目指すのは結構なことだけど、高校の先生は大学生活での生徒の挫折や後悔の責任は取れないし、取るべきではない。これを念頭におくべきだと思います。だから自分の人生は自分で決めるしかない。
私はずっと目指していた大学に入学できましたが、よく先生にワンランク上を目指せと口酸っぱく言われました。ただ、それでも大学入学後、周囲のレベルの高さに病んでしまうといった出来事に苛まれました。これは高校の時と似たような現象です。まずは高校のときの出来事を話そうと思います。
高校での挫折
中学時代、地元の公立中学で学年1位の常連的ポジションだった私は天下無双・「大丈夫。ぼく、最強だから」というノリで県内でも有数の進学校に入学しました。
すると、高校1年生の6月の実力テストで英語はクラス下でから2番目、国語はクラスで下から5番目の成績をかすめ取りました。
中学時代は学年1位と肩に風切って歩いていた自分を絶望のどん底に突き落とすかのような、そんな出来事でした。
進学校という性質上、県内各地の中学校で学年TOPだった連中が集う環境。喰われたのは自分だったというわけでした。
ただ、厄介だったのは、自分は運動も苦手、容姿もチーズ牛丼が好きそうな感じで、手先も不器用。勉強以外とりえのない人間だったのです。
ただこのテストの一件で唯一のとりえ、唯一、他がダメダメでも縋ってきた長所ともいえる学力が潰されたわけです。
クラスにいるのは、自分より運動ができたり、容姿がよかったり、それに加えて自分よりも成績がいい...自分の上位互換のような人たち。
じゃあ、自分が生きている理由はなに?自分の価値って何?
自分より優れた人がゴロゴロ湧いているんだから、自分の上位互換がたくさんいるのだから、自分が生きている意味はないのではないのか?
自分がいない方が社会にとって有益であるし、自分は他人と比べて社会に貢献できないのではないのか?
「価値のない人間がいないとは思えない。けど、自分が価値のある人間とは思えない。」
社会のために自分は死んでしまった方がいいのでは?
と優生思想まがいをぶちまけてしまいました。当時は新幹線通学で、鹿児島中央駅から隣の川内駅まで利用していましたが、川内駅到着のアナウンスが聞こえても、「このまま乗り続けたい。降りたくない」と思うように。ただ降りないと新大阪まで行ってしまうのでちゃんと川内駅で下車しました。
その日の天気は小雨。鹿児島の梅雨にしては珍しく、本降りではありませんでした。そのため、傘も差さずに見慣れた町を歩いたものの、家を通りすぎて川内川の河川敷で黄昏ました。
死んだ方が社会のためになるのではと思いながら、目の前の川内川に飛び込むかどうかを思案する。「私はチキンだからそんなことはできないくせに一人前に自殺なんて考えるなよ」ともう一人の自分が責める。
目の前の川の情景から背水の陣なのかと思ったものの、自我という敵に攻められているという点で「四面楚歌」が適切ではないだろうか。
傘も差さなかったからか、少々冷たい雫が体に染みわたり、6月とは思えない肌寒さが私の体を襲いました。
肌寒さに耐えきれず15分くらいでギブアップしたのち家に帰ることにしました。ただ、母に病んでるとは思われないように猫をかぶってその日を過ごしました。
しかし、私は何を思ったのか、結局「自分には価値がない」だの「自分は死んだ方が世のため」と思いつつも根底にあったのは悔しさだったようで、高校1年生の頃は英語をけっこう頑張った記憶があります。
しかし、それでも結果はついていかず。。。。
宿題で出された英文がなかなか読めない悔しさに、留守番かつ自室にこもってたこともあって、頭が狂ったのか全裸で復習を始めるくらい当時は英語が苦手で暴走した記憶があります。
しかし徐々に英文が読める感覚を味わい、高校1年生の1月の模試で英語学年1位を取るまで這い上がってこれました!
結局、何のおかげかなと考えたのですが、
Poppin’Partyの、「前へススメ!」という曲に励まされたおかげかな。。
ポピパ最高! 有咲ちゃん最高!
大学での苦悩
そして高校での悔しさをバネに成績で無双。また高校でもクラス1位の常連となった桜小町氏。無事第一志望の高校に進学できます。
実際、同じ大学の人は、入試を乗り越えた人たち。学力も高校で無双!肩に風を切って歩いていた中の人と同じくらいなわけです。
相も変わらず、中の人のとりえは勉強頼りだった。
あれ?この展開デジャブじゃね?
そう思った読者の皆さん。勘が鋭い。
大学での英語の授業、毎回テキストの予習を課し、その内容の小テストがありました。中の人、そこそこ真面目ですから予習も欠かしたということはありません。ただ、問題が変化球で「こんな単語調べてないよ~」というものに出くわすことも。
そんな予習チェックで10点中3点を記録。
当時大して仲良くない奴から答案を見られて「3点とかエグイだろwwww」とも言われた記憶が...(今はよっ友くらいの立ち位置ですが。。。
そこそこ予習に時間をかけている自分の要領の悪さを突き付けられたようで、3という数字は鋭利なナイフよりも尖っていました。
そう。唯一のとりえ「勉強ができる」を潰されました。それに自分は、友達とあまり遊ぶこともなく、入ってるサークルも活動頻度は低く、バイトもシフトが全然入れられていないという状況でまさに何もしていない大学生的な感じでした。
そして勉強すらも満足にできていなかったら。。。
自分が経済学部ということもあって、周りは陽キャラが多く、自分は完全に彼らの下位互換なんだろうと悟りました。大学生活も禄に有意義なものにせず、気づいたらアニメ1クール分の月日が経過しています。
自分って本当に何の価値があるんだろう。。。。
鹿児島の田舎から神戸に渡った自分は慣れない都会生活からか、ビルが輝きを見せる中、一人こんな暗澹たることを考えて雑踏の中に消えています。
簡単にいえば周りは皆、自分の上位互換で自分よりもいろんな長所があって、自分よりもキャンパスライフを謳歌できていて。。。。
周りが優れているほど、自分はナイフの矛先を自分に向ける。。。。
それは「比較」という名の凶器である。
安易に上を目指せとは言いづらい
私は第一志望の大学に今は入れているが、高校時代は模試の成績が少し上振れていて「もっと上を目指したらどうか。この成績で今目指している大学はもったいない」と模試が返却されるたびに言われました。
先生は私のためを思って言ってくれたのだろうか。
単に難関大学の合格実績が欲しいだけではなかろうか。
上の学校を目指すという行為は、落ちるかもしれないというリスクばかりが強調されがちだが、入学後のリスクも十分にある。
アイデンティティの拡散だ。
自分の上位互換といえる人物が多数存在する環境で揉まれ、「なにくそ!」と成長できる人にとっては絶好だが、高校時代の私のように、自分の存在価値に悩み、もがき、果ては自殺まで考える。またそのような環境に揉まれたためにアイデンティティが拡散し、自分が何者か見失い、大学生活を楽しめなくなる。そんな可能性が、レベルの高い環境を目指すことに秘められているのだ。
「井の中の蛙、大海を知らず」という諺があるが、大海で溺れてしまう可能性も十分にある。だったら井戸での生活を満喫したい。
自分の上位互換みたいな人に出会い、自分よりまぶしいくらい輝いている人に出会い、自分の無力さを悟る。
上を目指すことは、将来の自分が自分に対し、「比較」というナイフをつきつける可能性を生み出すということだ。
それでも、本人が望んでなくても、先生は模試の成績がいいからという理由だけで偏差値の高い学校を安易に薦めることができるのだろうか。
【追記】
次回は、小学5年生からずっと見ていたアニメの聖地巡礼に行った話でも書こうかなと思っています。お楽しみに!
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