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静かに自分を肯定できたら

静かな朝だった。ぼんやりして言葉が出てこないことがある。考え事をして言葉が出ないこともある。話したいのに、意識するあまり言葉が出てこないことも。話したくないわけじゃない。話したい。もっと話したいのに、言葉が出てこない。言葉が溢れて止まらない日もあるのに。

ぐるぐるした思考の中で、いっそこのまま夜までノンストップでパソコンに向かって創作し続ければ、少しは気分が晴れるのかと考えた。

そんな時こそ、海まで行くことにした。あえてランニングの中で一番遠いコースを選んだ。前回は海沿いを軽く歩いたけれど、今日はノンストップで走った。1枚の写真を撮った以外は止まらずに走った。あまり距離を感じなかった。ずっと考え事をしていたからかもしれない。疲れたし、汗ばんだ。家に帰ってすぐに最寄り駅まで走ることになったけれど、さっきよりも走りやすかった。小雨が降ってきて気温も低く、6月とは思えないほど涼しかった。

自分に「大丈夫」と言い聞かせた。大丈夫と書いてみた。何度も「大丈夫、大丈夫」と書いた。何が大丈夫なんだろう。大丈夫って何だろう。

できないことばかりで、余計なことばかりしてしまう。よかれと思ってしたことが全く意味をなさないことが多すぎる。人の反応は決まっている。最初は優しく笑って見逃してくれる。そしてだんだん「またか」「しょうがないよね」という反応になり、静かに離れていく。だけど、全てができないわけじゃないし、全てが余計なわけでもない。例え小さなことでも、できたことは見逃さずにいたいと思う。私は私から離れることはできないのだから。

自分の行動を肯定してあげたい。そんな気持ちがあったから、動画にもそんな言葉を込めた。今までしてきたことを否定するのは簡単。肯定するのは難しいけれど、肯定できたら救われると思う。過去の私が。前だったら映せなかったであろう自分の姿をたくさん入れた。まだ見たくない部分も多いけれど、少しでも肯定できたなら、それでいいじゃないか。誰からの反応がなくたって、私がその勇気に拍手してあげる。

とあるメールが届いた。大多数に送っているものだろうから、メールはそのままアーカイブした(どんなメールも目を通したらアーカイブして受信トレイは常に空にしておく)。もし私が「興味ある!」と動いたなら、人生はまた違う方向に変化したのかもしれない。仮に動いたとして、生き方や考え方は大きく変わらないかもしれないけれど、関わる他人は増えるし、新しい風が吹く。人生って少しのことで急に方向が変わる時がある。

夜はスイスで安楽死を選択した女性のドキュメンタリーを見た。この女性は家族を作りたかったから早く結婚して子供を作った。クリスマスなども子供のために過ごしたけれど、実は自分がやって欲しかったという内容が最後に流れた。彼女のキャリアは分かったけれど、どんな両親に育てられ、どんな関係だったのかは分からなかった。ただ、彼女はとても完璧主義で聡明で、旦那さんに出会うまでは孤独に生きてきたのだろうと思った。

私が小学校低学年の時、一緒に帰ってバイバイしたばかりの同級生が夜亡くなったことを聞いて、「そっかぁ」と思った。葬式で泣きじゃくる同級生たちを見たり、保護者の人たちの話を聞きながら「人はたくさん嘘をつくけれど、『死』に対しては本当のことを伝えたがるんだな」と感じて不思議な気持ちになった。人は死に対して「フェイク」を混ぜるよりも、リアルをより「リアル」に伝えようとする。どこまでもリアルを知ろうとする。淡々と進むドキュメンタリーだったから、私も淡々と見ていた。残された人たちへ宛てた手紙や、優しい娘さんたちの姿、物静かながらもたくさんのことを考えて葛藤し、最後には感情を押し殺して女性の願いを聞き届けた旦那さんの姿が映し出されていた。一人の女性の、ひとつの家族の選択を見れてよかったと思う。

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